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包摂と排除

コラム町永 俊雄

▲ トークセッションの様子。左がライフリンク代表の清水康之氏、右、町永俊雄氏。観客は、自死遺族、学生、留学生、記者、医師、行政と毎年多彩だ。

3月11日、東京のYMCAアジア青少年センターで「いのち支える映画祭」が開かれ、そのトークセッションに参加した。その日は東日本大震災から6年目。私は毎年この日は、自分のネットワークを通して誰彼となく「黙祷しよう」とメールを送り続ける。せめてせめて「忘れない」を行動にしようという思いだ。
「いのち支える映画祭」も黙祷から始まった。この映画祭を主宰したのは、NPOのライフリンクだ。ライフリンク代表の清水康之さんは、2004年から自殺対策に取り組み、去年3月には自殺対策基本法の改正に尽力した。そして今は「地域包括ケアシステム」、そしてその進化形の「我が事丸ごと」をキーワードとした「地域共生社会」構想と自殺対策の連携に取り組んでいる。ここには「自殺対策」を単体で切り離すのではなく、地域の暮らしの中のネットワークに組み込まれてはじめて力となるという彼の確信がある。
ライフリンクの目指すのは、「自殺」を防ぐのではなく、「生きる」を支援することだという。それはどこかで「認知症」を駆逐するのではなく、「認知症」と共に生きる、と通じ合うところがある。震災、自殺、認知症、それぞれが「いのち支える」という多層的な地域の命題につながっていく。
映画祭のトークセッションのテーマは「包摂と排除」だった。このテーマ設定にも、個別の課題性に閉じるのでなく、今の自分たちの自己検証の視線がある。自殺対策限定でなく、震災対策としてでなく、さらには認知症の課題をも重ね合わせながら、すべてを暮らしの舞台である「地域」から見つめようというのだ。改めて「包摂と排除」を考えた。

包摂、インクルージョンの原義とは、これ元々は鉱物用語だ。水晶だとか、翡翠、キャッツアイ、サファイアなどの宝石は、その結晶の中に異質なるもの、内包物が閉じ込められている、これがインクルージョンである。全く異質なものをその内部に占めていることで、あの輝きを放つ宝石たらしめている。とても示唆と暗示に飛んでいると思う。異質の「内包物」がなければ、宝石ではなく単なる結晶体にすぎない。
インクルージョンとは、異質なものを異質なものとして互いに共存させていること。包摂とは、混ぜ合わせて一緒くたに括ることではない。互いに違った存在をかけがえのないものと認め、その共存と共生こそが包摂である。だから、パワーストーンであり、癒しの力を持つのが宝石なのだ。包摂は社会のパワーストーン。いいなあ。
この包摂がわかると、「排除」も明確に見えてくる。
「違う」という言葉がある。親が子供に「それは違うでしょ」という。上司が部下に「それは、違うなあ」という。このときこの「違う」はすべて全否定の言葉なのだ。親は子供に「それは間違ってる」といい、上司は部下に「君の提案は却下」というときに「違う」と言う。
私たちは「それぞれが違って、それぞれがかけがえのない存在である」という包摂につながる"difference"という文脈を不幸なことに持っていない。この日本社会は均質であること、みんなと同じであることを社会の成員たる至上の資格としてきた。それは一面、家族的で居心地の良い共同社会の美質としての構成要素であったことは間違いない。しかし反面、一面的な同調圧力となって、集団とは違う存在は、直ちに「排除」「いじめ」の対象としてしまう。私たちは私たちの「違う」という言葉を「排除」としてでなく「包摂」として置き換えることが求められている。それが多様化とかダイバーシティということではないか。

親と子は、当然違う。しかしそれは一方が一方を否定し、排除する「違い」であるはずがない。「排除」と「包摂」は同義だ。それを全く異なる概念として大きく引き裂くのは、私たちの心情と行動であると、私は思う。
「自殺」「認知症」そして震災に伴う様々な課題に向き合う時、この社会の成員それぞれがちがう存在であるとともに、かけがえのない存在であることを認めることをスタートとしたい。地域「包摂」社会は、きっと宝石の輝きを放つ。

▲ 「いのち支える映画祭」のチラシ。今年はすでに終了している。いじめをテーマにした「十字架」とイタリアの精神病院廃止のあとの物語「人生ここにあり」の上映とトークセッションだった。

|第42回 2017.3.28|

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