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認知症の人たちのスペシャルトークを聴く

コラム町永 俊雄

▲ イベントのチラシ。認知症の人の普段の暮らし、日常の思いを伝えよう、それが狙いだった。

6月28日に、めぐろパーシモンホールに5人の認知症の人が集まった。ともに登壇したのが、町田で認知症の次世代型デイサービスに取り組むNPO「DAYS BLG!」の前田隆行さん。DAYS BLGの活動はメディアなどでも取り上げられて注目されているので、ここでは説明は省こう。
で、何が始まったのかというと、認知症の人の賑やかなおしゃべりなのである。「認知症の私たちスペシャルトーク」と題したイベントだ。BLGでの一日のあれこれ。毎日のように通うというカラオケ。近所のディーラーでの洗車作業。大好きなお酒の話。語り始めると2時間はかかるというこだわりの趣味の話。そしてウォーキングして、「どっかの公園」での散策といったエピソード。(これは要するに、徘徊して見知らぬ公園に迷いこんでしまったということ)。
満員の会場は、幾度となく大きな笑い声に包まれる。前田さんも司会をするというより、一緒になって「そうそう」とうなずいたり「でもさあ」と、みんなの「おしゃべり」を引っ張る。この手の認知症当事者の話し合いにありがちな「認知症になってつらかったこと」だとか「この社会を変えるために」といったことは、ここでは出ない。ひたすら仲間内のおしゃべりが続いていく。
このイベントの狙いをBLGの前田隆行さんは語る。「今日のスペシャル・トークではBLGでの普段通りの認知症の人の姿を伝えたかった。でもね、聴いた人は戸惑ったのではないか。特に認知症の話をするわけでもなく、何か介護のための話でもなく、あえてとりとめのないおしゃべりばかりだからね。でも、これが認知症の人の日常なのだと伝えたかった」。

認知症の当事者の発信が続いている。とりわけ、ADI京都大会以降、その意味は大きく、この社会がどうあったらいいのかを深いところから世に問いかけている。私はそのことを全面的に支持するし、今後さらに注目していきたい。しかし、そこには陥穽もある。それは聴く側の過剰な意味づけである。認知症の人の話に無意識に教訓的なもの、役に立つ情報性を求め、「いい話」「感動」を期待してしまうのだ。どこかで「認知症なのに、まあすごい」というわけ。いや、言い方が少し意地悪だが、それはどこかで、認知症の人に「認知症の人生」を押し付けることにつながってしまう。
前田隆行さんは、そこを打破したかったと言う。仲間がいて、認め合う環境があれば、認知症の人同士、「認知症の話などほとんど出ないよ(本人談)」というわけだ。普段通りの当たり前のトークをしよう。前田さんはメンバーにそれだけを呼びかけた。当たり前のトークに、スペシャルトークと名づけることに、どこか前田さんのアイロニーも込められていたのかもしれない。聴いた人に「認知症」の前提なしに「人」のおしゃべりに付き合ってもらいたい、と。
大阪のフォーラムに参加したクリスティーン・ブライデンは聴衆に向かってこう語って締めくくった。
「認知症は、私のごく一部に過ぎません。それよりも私は女性であり、妻であり、母であり、3人の孫の祖母であるのです。それが私です」

▲ 言ってみれば、5人の認知症の人プラス前田隆行さんの「オヤジトーク」。軽やかに、どこか聴く人の固定した「認知症観」を揺さぶった。

|第49回 2017.7.03|

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