認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • 介護
  • くらし

5年前、「認知症」をかく語った

コラム町永 俊雄

▲ 中禅寺湖畔のカフェのテラス。眉間にしわ寄せるのではなく、暮らしのゆとりの中でじっくり考えたほうがいい場合も多い。

認知症を巡る環境は国際規模で大きく動いている。日本を含む世界で認知症の人が発信し連携している。
先日、パソコンのデータを整理していたら、2012年に、あるNPOの冊子に寄稿した文章が出てきた。この年に厚労省から「今後の認知症施策の方向性について」が出されている。わずか5年前とはいえ、何か時代の期待に満ちた向日の一文でもある。当時の個の課題が今や地域社会全体へと拡大している。自身、今一度の確認という意味でもここに再掲載しておく。「ですます」の謙虚な文体が好ましいではないか。

「もし、認知症になったら・・・」と考えたことがありますか。その時、胸によぎるのは何でしょう。そのひとつに「不安」があります。モクモクと暗雲のように胸いっぱいに広がる不安。しかし、ここにある不安は正確に言うと「認知症になる不安」ではないのです。「認知症になると、どういう不安に落ち込んでしまうのかが、わからないという不安」なのです。そう、どうも私達の不安の多くはわからないことに起因しているようです。
そもそも、この世を「認知症の人」と「認知症でない人」と二項に分けること自体に無理があります。むしろ、「認知症の人」と「まだ(たまたま)認知症になっていない人」というふうに連続性の中で捉えなければならないでしょう。データの示すように「誰もが認知症になりうる」時代なのです。誰もが当事者なのです。
さて、そのようにして、認知症を自分のこととして考える。するとこの社会は全く違う姿で立ち現れてくるかもしれません。認知症の人の困難や思い、家族や地域の役割、そして認知症の人の生きがいや喜びと、思いがけない広がりで、あなた自身の認知症の姿が実感できるはずです。

あなたのことを私のこととして受け止める、というのはおそらく私達が見失ってしまった社会原理のひとつでしょう。思いやりだとか、支えあい、助けあいといった言葉の背景には深くこうした基本的な動作が込められていました。
しかし、現代は閉塞感に満ち、誰もが自分のことだけにかまけるのに懸命です。組織と生産のためのつながりはがんじがらめにあるのに、行き交う雑踏の中で突然、泣きたいような孤立感にかられてしまうのはなぜなのでしょう。
「認知症のことを自分のこととして考える」ということは、その閉塞を打ち破るキーです。
「あなたの問題」は「私の問題」である。そこには他者の痛みを自分のこととして担い合い、喜びを共にわかちあう関係性の社会です。関心と共感と想像のありったけを総動員し、相互に絶え間なく行き来させることで、そこには孤立と不安の中の現代人を自ら回復させる確かな力が、みなぎってこないでしょうか。それは私たち一人ひとりがおのずと持っているレジリエンスともいうべき力であり、また「認知症の力」なのだと思います。

|第52回 2017.8.21|

この記事の認知症キーワード