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「認知症にやさしい社会」に「やさしさ」を問う

コラム町永 俊雄

▲ ジュネーブの国際連合事務局。ここにWHO本部もある。すでに認知症は、国内の課題というより世界で取り組む課題であり、とりわけ認知症ケアの先進国としての日本への期待は大きい。日本は、世界と連携しつつ「認知症」をリードする立場なのである。

去年5月にWHO(世界保健機関)の総会で認知症世界行動計画が承認された。
認知症は世界で優先的に取り組むべき課題だとし、直後に出されたADI(国際アルツハイマー病協会)の声明では、全世界では3秒に一人が認知症になり毎年1000万人が新たに発症し、そのほとんどが診断や支援を受けていない現実も指摘している。
その一方でADIはこう、評価もしている。「認知症を恐れるのではなく、病気を理解し、認知症の人を支える社会に変われるまたとないチャンス」である、と。「変われるまたとないチャンス」と捉えることができるか、そのことが問われている。行動計画がまず掲げているのが、お馴染みの「認知症にやさしい社会づくり」だ。

「認知症にやさしい社会」、だいぶ聞き慣れてきて、その分、なんとなく聞き流してしまっていないだろうか。この「やさしい社会」というのが、実はクセモノなのである。「やさしい」という語感が、曖昧な情緒の中に埋没してしまって社会システムの転換であり、旧来の認知症観の見直しという「変革へのまたとないチャンス」になかなかつながらない。だいたい、妙齢の女性の8割の(根拠はない)理想の男性像が「やさしい人」なのであるから、ケッ、「やさしさ」へのいわれなき反発が私にあっても不思議ではない。
「愛する」より「愛されたい」というのはどこかに他者からの庇護の対象に身を置きたいという自立放棄の響きがあり、それと「やさしさ」は容易に結びついてしまう。だから「認知症にやさしい社会」の語感の危うさは、認知症への慈愛と憐憫と母性に満ち、丸抱えの「お世話」で自立収奪の社会へと誘導してしまいがちなのである。そこにはかつての「措置」としての福祉観の残滓があり、恩恵としての擬制の「やさしさ」だけが影を落とす。

しかし、世界が共有する理念としての「認知症にやさしい社会」がこんなにヤワであっていいはずがない。では、「やさしさ」とは何か。
「認知症にやさしい社会」の英語は「dementia-friendly communities」だ。「やさしい」の部分は、フレンドリイなのである。辞書によれば、おなじ「やさしい」でも「kind」は個人の性質であり、「friendly」は相手との関係を重視した単語だと注釈にある。言われてみれば、フレンドリイ(友達だもんね)、というのは相互の関係性を表している。カインドの「やさしい」がともすれば、単一方向でのやわやわとした感情発露であるのに対し、フレンドリイの「やさしさ」は、「キミとあたいは仲間だからね」、という相互承認のきっぱりとした「やさしさ」なのである。このクセモノの「やさしい」という用語の多義を整理するためには、いっそ「認知症にフレンドリイな社会」と呼称したほうがわかりやすい。
もしかすると、この国のウエットなモンスーン風土の中にあっては、私たちは情の言葉は育んでも、フレンドリイのようなフラットな関係性の上に、社会性の磁力を帯びた言葉を築く意識が希薄だったのかもしれない。
変革へのまたとないチャンスとしての「認知症にやさしい社会」。それにはまず私たちの「やさしい」という言葉をもう一度見つめ直し、「ともに生きる」フレンドリイな社会に組み直すことが必要だ。「やさしさ」は変革への靱さを生む。
私はそのような「やさしい人」になりたい。

|第61回 2018.1.9|

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