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認知症の人と当事者である私たち

コラム町永 俊雄

▲ 考えてみれば、認知症の人たちと集まってはそれはよく語り合ってきた。人と人が語り合うことの不変の力だけが、何事かを生み、何事かを変えていくのかもしれない。ここに集まる人々がみんな「当事者」。認知症は人生の途上の時間差だけの違いで、誰もが「当事者」だ。

去年、日本認知症本人ワーキンググループは法人化した。法人化するというのは社会での信頼や役割もより明確になるということだ。あまり報じられなかったが日本の社会の一角に、認知症当事者グループが確かな存在を占めるようになったことの意味合いは、もっと知らされていい。以前からもその活動の発信力は明らかだった。去年の改正道路交通法に対しても、認知症の人の踏切事故での最高裁判決に際しても政策提言を行なっている。抗議や声明ではなく、認知症の「政策」を担う団体として「提言」をしたのだ。ここには社会に対して「存在を許してもらう」のではなく「存在を認めさせる」転換と意思がある。

しかし、以前のJDWGは「日本認知症ワーキンググループ」と呼んでいたが、法人化してそこに「本人」が入り「日本認知症本人ワーキンググループ」となった。なんで「本人」なのだろう。「本人」とはなんなのだろう。
私は常に「当事者」と言う。世界の認知症当事者と語り合うNHKハートフォーラムのタイトルが「当事者と創る新時代」であった。その冒頭で私はこう宣言した。「なぜ、『認知症の人』と創る新時代、としなかったのか。それはこの会場の誰もがまた『当事者』であるからです」と。
「当事者」とは何かについては、先行する障害者の自立生活運動の中で確立した概念でここに詳説を述べる余裕はないが、よく言われるように「当事者である」ことと「当事者になる」ことには違いがある。本人が他の誰からの代弁ではなく、自分で自身のニーズを見出し、それを社会に求める時に「当事者になる」としているのだ。理屈で言えば、JDWGメンバーは「当事者である」人々が参集し、「当事者となる」ことで、社会へ発信するグループとして存在し機能することを目指す。
認知症に関して言えば、この「当事者」あるいは「当事者性」はとても相性がいいのだ。将来推計が喧伝するように、今後も認知症の人が限りないほどに増え続ける。だからどうしたらいいのか、と茫然とする中で素朴に思い定めたのは、この社会システムの転換だ。誰でもが認知症に「なりうる」社会なのであり、認知症については「自分のこと」として考えることを基底として認知症社会を構築するしかない。誰もがなり得て、自分のことと考える、その時の主人公が「当事者」なのである。
「当事者」という時のその射程ははるかに長く、その包括は広く深い。

本人を基軸としてまずは家族、医療者、専門職、地域福祉を担う人々と、ここまで当事者の視線を伸ばす作業の中で必然として気づくはずだ。そうだ、自分もその当事者の内の一人なのだ、と。認知症には生活感の只中で、自身の「当事者性」を気づかせる「力」がある。
「当事者」は関係性に働きかける。認知症の人を理解できるかできないかの一つの正解を求めるならその地点で正解は停止、固定化し、当事者性は発動しない。これを「理解のためには常に問いかけるしかない」とすれば、双方の当事者性にめまぐるしくコミュニケーションが行き交い、「共に生きる」確かなケアが生まれるはずである。認知症の人の「自立」「自己決定」も然りだ。自己決定は関係性の中に置いて初めて意味を持つ。それは当事者同士の協働につながり、地域社会への設計を浮き上がらせる。
「本人」の用語はそこがそっけない。本人と言ったとたんに、認知症の本人とそれ以外の人が峻別される感覚がある。その時家族は参入されないのか。本人と地域を並べてみると、どうもその中間が空白にしか見えてこない。あるいは当事者規定の曖昧さを嫌ったのだろうか。私は曖昧な余地や融通さこそが、現実の暮らしを駆動するものだと考える。
「地域包括ケアシステム」であれ「地域共生社会」であれ、あの図式の中の人々のアイコンは、すべて「当事者」でなければ成立しないであろう。私は、認知症の「当事者性」というのは、他者の困難を自分のこととして引き受ける市民社会の想像力のことと言ってもいいと思う。
認知症を考えるキーポイントは、「当事者」という用語を根付かせることにある。

|第62回 2018.1.23|

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