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認知症とともに「よく生きる」と「よく死ぬ」こと

コラム町永 俊雄

▲ 当然のことながら、認知症の人も最期を迎える。本人意思の確認は、実は認知症での大きなテーマである。今回のガイドラインの検討会メンバーに、なぜ認知症当事者や、家族会の代表が呼ばれなかったのだろう。

この国の超高齢社会というのは、とりもなおさず認知症社会であり、また別の側面で言えば年間130万人が亡くなる「多死社会」である。将来推計ではさらに増え続け、子供人口の減少も続くとするなら、年ごとに大都市の人口がそっくり消滅していく時代である。

厚生労働省はこの「多死社会」を踏まえて、2018年3月23日に「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」をまとめた。

要するに終末期の治療・ケアをどう選ぶか、どこで最期を迎えるかなどの手順のガイドラインである。
ガイドラインとしては11年ぶりの改定だが、2007年には「終末期医療の決定プロセス」としていた。それが今回の改定では、「人生の最終段階における医療・ケア」となった。

この意味合いは大きい。
「終末期医療」でなく「人生の最終段階」としたところに、その人の人生を俯瞰した広がりが込められている。
実際、厚労省の解説では「患者のこれまでの人生観や価値観、どのような生き方を望むかを含め、できる限り把握することが必要 」であるとしている。ここにあるのは、終末期医療の枠組みを超え、「よく死ぬことは、よく生きること」という、私たち自身の死生観の形成が求められている。

ガイドライン自体は末期がんなどの場合の治療方針を基本としているが、その大きなポイントは、本人の意思が確認できない場合である。その場合、家族等が本人の意思を推定できる状況では、家族の推定意思を尊重するとしている。

ここには、当然、認知症の人への対応も盛り込まれている。
ガイドラインに先立って2014年に出された報告書には「認知症が進行し、かなり衰弱が進んできた場合 」のケースが検討されているのだ。

認知症が進んで、本人の意思が確認できなくなるということは、これからさらに増えてくるに違いない。認知症高齢者には慢性疾患、がんなどを併発することも多くなる。その時、本人の意思を汲み取り、医療とケアの方針を決める家族の役割は大きい。
ただ、認知症の人の介護家族自体も高齢化し、老々世帯でもあったりする。重い負担とならないか。

誰が認知症の本人の意思を推定し、「人生の最終段階」をその人らしく過ごすための医療とケアにつなげることができるのか。
ガイドラインでは、家族等が本人の意思を推定できない場合は、それに代わる医療・ケアチームが家族と十分に話し合い、本人にとっての最善の方針をとるとしている。
本人の意思決定の尊重が謳われていながら、この辺りが曖昧で抽象的である。そうならざるを得ないのだろう。

ここに浮き上がるのは、認知症の当事者とパートナーとの関係性である。
人生を共によりよく生きるための伴走者としてのパートナーは、家族と共に、認知症の人の「人生観や価値観」を共有し、その意思を推定できるのではないか。

かつて仙台で講演とディスカッションを行った時、判断能力が低下した認知症の人の「自己決定」をどう支援するか、成年後見制度の議論の時、認知症当事者の丹野智文さんがこう発言したことがある。

「いつも、進行した認知症の人の支援の難しさが語られる。認知症の人の支援をその時点だけを切り出して組み立てるのではなく、大切なのはどんなに重度とは言え必ず診断された時がある。その瞬間から適切な支援があり、それが継続されたら事態は違う。その人がどういう人かは継続する支援の中で誰にも共有できる。私(丹野)も判断能力をいずれ失うかもしれないが、その時私がどういう人間かわかっている人が、私の失われた判断を支援してくれるはずだ」

この発言は衝撃だった。
丹野氏は、失われるかもしれない自身の未来を賭して、あるべき支援の姿を問いかけたのだ。

認知症の当事者は、人生の最終段階に至るずっと前から、自身の人生を常に自覚的に刻まざるを得ない。
自己決定するためには、それを支える新たな形の「支援」と「地域」を周囲に創り上げてきた。
ガイドラインに必要なのは、認知症当事者活動が作り上げてきたような、認知症とともに「よりよく生きる」ための医療とケアと、そして支援の人々と地域なのではないか。

「認知症とともによく生きる」こと。

それはそのまま人生の最終段階での「よく死ぬ」ことまでまっすぐにつながる確かなガイドラインなのだと思う。

「人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン」

|第67回 2018.4.2|