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認知症の啓発キャンペーン

コラム町永 俊雄

▲ 認知症の啓発キャンペーンを考えるということは、実は「認知症にやさしい社会」について今一度、深く考えることにつながる。「希望」だとか「ともに生きる」とか、便利に使い回していやしないか。啓発するというのは、誰もが持っているその人の力を信じることだ。社会の中のレジリエンスを呼び起こすのが「啓発」だ。

認知症への関心は高まり、認知症をめぐる環境はここ10年で大きく進んだ。
そうだと思う。私もよくそう発言したりする。
しかし、本当にそうだと言い切れるのだろうか。今、このコラムを読んでくれているあなたは多分、認知症の当事者であったり関わっていたりして、要するに問題意識をお持ちだ。そうでない人々、実はそうした人々がこの社会の大多数であることは認めざるを得ない。その人たちにとって、認知症をめぐる環境は大きく進んだと言えるのだろうか。あいも変わらず、認知症に「出会う」のは認知症になった時で、それまでは、とりあえず認知症は「関係ないこと」なのではないか。

国は2015年に、認知症にやさしい社会に向けて新オレンジプランを発表。主な目標として7つの柱を打ち出した。その最初の柱が「認知症への理解を深めるための普及・啓発の推進 」である。啓発の推進と、最初にどかんと掲げている割には、それで何が起きたのかよく見えていない。ということで、厚労省の老健事業として、認知症の啓発キャンペーンに関わってきた。

誰にも届くためには、映像を活用しよう。洗剤とインスタントラーメンのCMの間に、シャレたCMのようにして認知症キャンペーン映像を流す。すんなり日常感覚に溶け込むようなものにしたい。教育現場にも専門職の研修にも、あるいは地域の会合にもどこでも見てもらえるような汎用性のあるハイブリッドな教材映像もあってもいい。教材というより、話し合うためのミニ番組的なものにしよう。そんなことを映像制作仲間と話し合った。

啓発キャンペーンとは何か。
「理解しましょう」「差別をなくしましょう」というキャンペーンは、ある意味、簡単である。情報は一方的で、教示的な角度を持ち、正義の言葉として打ち出される。が、これは本来の「啓発」ではない。むしろ「啓蒙」の響きを持つ。
「蒙」とは蒙昧、暗愚無知を指す。啓蒙とは、衆愚を教え導くということだ。これでは、ともに生きる「認知症にやさしい社会」に到達するとは思えない。
「啓蒙」と「啓発」とは違う。啓発とは、人々の「気づき」を触発する。ああ、そうか、そういうことなのか、とその人の胸の奥深くがコトリと音立てるように、気づきと意識変化が生まれる。それが啓発の目指すところだ。

だが、これが難しい。啓発キャンペーンを発信する側は、無意識に「正しい側」に立って、相手を教育しようとする位置どりをしてしまう。そうではない。洗脳ではないのだ。啓発では、人々の自由な発想を担保し、その判断や解釈は見る側に委ねるようにしたい。
例えば、研修の映像素材の制作過程では、それぞれのチャプタータイトルが提案された。映像では四人の認知症当事者がこもごも、診断を受けた後の不安感、絶望感を語る。そのタイトルは、当初「ネガティブな認知症観が本人を苦しめる」だった。その他にも「認知症をオープンにしたら楽になった」、「サポーターよりパートナーで!」と言ったものが並ぶ。
どれも端的な表現である。製作者としてはズバリとコンテンツを示したつもりだったろう。通常番組のいわゆる「小見出し」であれば、これで言うことはない。
ただ、啓発キャンペーンでは「正解」を先取りしてはならない。答えは、見る側にある。だから、全てニュートラルなタイトルに変えてもらった。
「診断された時の不安と絶望」「認知症をオープンにする」「サポーターとパートナー」、と言った具合だ。

映像を見る前にタイトルで予断を与えたくない。先入観なしに映像を見て、気づき、考え、自身の「認知症観」を揺り動かしてほしい。「正解」はない。映像の当事者の話すことに全て同意する必要はない。結論的なことをすぐに獲得する必要はない。世間の人々の暮らしの感覚の深いところの気づきが発動して初めて「啓発」が力となり、変革を生む。

認知症について、「啓発される側」の視点から見てみたらどうだろう。「認知症になったらおしまいだ」という根深いスティグマの持ち主、いわば世間に、私たちは届く言葉を持っているか。語りかける力があるのか。認知症の人に寄り添うように、暮らしの中のスティグマという不安に寄り添うために何ができるのか。「啓発する」「啓発される」という二項概念を越えて、双方の視点を交互に行き来することで初めて、社会の中の「認知症」が見えてくる。

認知症をめぐる環境はここ10年で大きく進んだ。その通りだ。認知症啓発キャンペーンはその成果を、世間を教導することではなく、「ともに生きる」呼びかけとして発信していく。

ここには、あなたの知らない「認知症」がある。
ここには、あなた自身が出会う「新しい時代」を拓く認知症の力がある。

|第68回 2018.4.18|