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「認知症」が地域を創る・金沢リポート

コラム町永 俊雄

▲ 金沢でのNHKハートフォーラムの様子。下段の写真は、壇上右から永田久美子氏、家族の会代表鈴木森夫氏、金沢の道岸奈緒美氏、認知症当事者の川端信子氏、義妹の川端八千代氏、丹野智文氏。当事者を交え、地域の課題に真っ向から向き合ったフォーラムだった。

金沢といえば加賀百万石の城下町。歴史と伝統が息づく古都である。
そしてもう一つ、地域に根付く歴史遺産がある。
1934年(なんという時代性か)、金沢市内に12の善隣館(いわば現在の公民館的福祉施設)が設置された。金沢の風土が生み出した独自の福祉拠点である。
善き隣人であること、善隣思想は金沢の人々が今に受け継ぐ思いと行動の拠り所だろう。

しかし、その中で育んで来た緊密な結びつきは、光と陰となって歳月の中のどこかで硬直する部分があった。時代の柔軟な変化に対応する難しさに直面した。
「認知症」である。
地域の結びつきが緊密なだけに、どこかで認知症の人の暮らしの余地を見えにくくしてしまったのかもしれない。それは日本の地域社会のどこにでも共通する課題で、均質な地域社会の澱(おり)が、因習となって暮らしに降り積もったのか。

だからこそ、「認知症」を語りたい。
金沢市、地域の放送局が声をあげ、7月6日、金沢でNHKハートフォーラム「認知症700万人時代〜本人の声を聴き、当事者と創る新時代〜」を開く。
それは時代の変化の中、地域の現実を見据え、自分たちの言葉と行動で、今一度自分たちの地域と善隣思想を問い返すことでもあった

今、医療者や支援者など、誰かが語る「認知症」ではなく、本人が語る「認知症」を聴くことの必然が言われている。
そして、その構造はそのまま、地域発信につながる。
今、中央が語る取り組みではなく、地域の人が語る取り組みを地域の人が共有しなければ、地域の新時代の扉は開かない。

しかしその現実の扉は重い。
「認知症とともに生きる」と言っても、その言葉の優位性の前にかえって萎縮する。「認知症700万人時代」という中で、認知症との共生の意義と意味はわかる。十分理解しているつもりだ。
しかし、その言葉を地域の生活者の只中に引き下ろして、空回りさせずにどう活動、実践につなげればいいのか。

そんなひとりが、3年前に金沢市に「若年性認知症の人と家族と寄り添いつむぐ会」を発足させた道岸奈緒美さんだ。
「当初は、地域で認知症の当事者と出会うこともままならなかった」
そんな中でまず取り組んだのが認知症カフェだった。

金沢市21世紀美術館は、金沢が誇るランドマークである。未来型のガラス張りの円形建築は金沢の中心部にあり、地域に開かれ地域とともに育って行く公共建築である。
「その21世紀美術館で認知症カフェを開きたい」道岸さんは提案した。
金沢市の反応はこうだった。
「ガラス張りの中で認知症の集いを開くことは、認知症の人をさらし者にするようなものだ。認められない」

往往にしてこうした行政の反応に、外部の人は、頑迷であり不正義であるとする。しかし、道岸さんは(多分、いったんはのけぞり天を仰ぐ思いもしたろう)根気強く行政者との話し合いを続ける。現在の担当の課長は話し合いにとことん向き合った。行政の仕事、役割は地域の現実をかき分けながら実践につなげていくことだ。理念が一足飛びに課題を解消するわけではない。行政が間違っていると、ビシリと指弾するだけでは生み出すものは貧しい。
担当課長は、道岸さんたちと地域を動かすためのプロセスを積み上げた。そのプロセスを共有することが、地域の声を聴く事だった。
言うまでもなく、行政者もまた、地域の人なのだから。

それは金沢の地域の人々が造り上げたかつての善隣館のあり方と相似する。行政はあくまでも応援者で、活動主体は地域の人々だとしてきたのが善隣館だった。

かくして4月から、ガラス張りのモダンな美術館の中で認知症カフェが始まった。認知症の本人の企画を取り入れ、「集めるカフェ」ではなく、誰もが「集まってくるカフェ」である。
ガラス張りの中でのカフェだから、通りかかった人も見て、そんな人々とともに「バスでおでカフェ」というユニークな企画も実行した。みんなで地域にどしどし出て行く活動である。
遠慮なくやり合う関係を築いた行政者が心強い仲間となった。

フォーラムの数日後、道岸さんは弾むメールで事後報告を寄せてくれた。そこにはこうある。
「フォーラムをやったことで、認知症の人の中に『まだ顔や名前は出せないけれど、自分たちの活動を知らない人たちに伝えたい』という声が寄せられました。
また、金沢21世紀美術館の副館長がなんと、『バスでおでカフェ』に参加してくれ、認知症の人にとって安心できる美術館、楽しい美術館を一緒に考えていきたいとおっしゃってくれました。」

本人の声を聴く。そこから地域が動く。
一般論で言えば、それは安易な道ではない。行政とNPOなどインフォーマルセクターとの間合いには、ともすれば市民の側に、公的責任の不備の補完や代替を押し付けられがちだ。
行政との間に開かれた言説空間が広がり、そこに本人や家族、そして地域の人々の参画が保証されているのか、率直にやりあう関係性や緊張感も欲しい。

地域特性に、進んでいるとか遅れているという感覚や優劣を持ち込むのではなく、むしろその現実の重さを認知症の人とともに、誰もがその最大摩擦係数のところを揺り動かしていく。
「できないこと」にたたずむのではなく、「できること」を持ち寄って、理念と現実の歯車がカチリとかみ合うようにして、地域が動いていく。

福祉拠点としての善隣館、善隣思想を受け継ぐ金沢でのフォーラムは、認知症の人を「善き隣人」として地域にむかえ入れる宣言ともなったはずだ。

|第74回 2018.7.13|

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