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私たちの「持続可能な社会」のために

コラム町永 俊雄

▲ 国連広報センターのSDGsのロゴ。ここには「あらゆる年齢の人の生活」だとか「まちづくり」そして「パートナーシップ」など、17の目標が掲げられている。持続可能と言えば、そのまま日本の少子超高齢社会の課題だ。そして、SDGsと「認知症」、日本の取り組むべきことでもある。

この少子超高齢社会には「地域共生社会」への転換が言われている。そのことに間違いないとしても、いまひとつ、「自分ごと」としての切実感が希薄なのはなぜだろう。
そのことを考えるのに、全く別の視点から考えてみるとわかるような気がする。

SDGs(エスディージーズ)をご存知だろうか。
2015年9月の国連サミットで全会一致で採択された国際目標で、日本ではピコ太郎が軽快な歌とダンスで紹介し、話題にもなった。
このSDGs、これからの私たちの社会を考える上で重要な概念である。

そもそも、このSDGsとは、Sustainable Development Goalsの頭文字で、「持続可能な世界」を目指すもの。そのスローガンが、Leave No One Behind 「誰ひとり取り残さない」とある。ここには権利や福祉の概念が盛り込まれている。

今、このSDGsにいち早く取り組み、力を注ごうとしているのは企業グループである。
私も運営委員となっている先日の全国社会福祉協議会の委員会でも、企業の社会貢献をになってきた委員から「SDGsと企業経営」という報告があり、また横浜市では9月8日に、市民、企業の連携による「SDGs未来都市・横浜」のスタートを飾るイベントとして、なんと花火大会を開催。環境やICTの先端技術産業グループが、花火と共に世にSDGs概念を打ち上げる。

その辺りの感覚は企業の方がはるかに鋭敏で、企業が乗り出してくると、どうも「福祉」は及び腰になってしまうようである。
確かに、これからの企業にとっては持続可能性は生命線であり、国際活動する上でも、この開発目標をどうクリアするかは至上命題なのだ。

「持続可能な世界」、実はそこには、これまでの企業の深い反省が投影されている。
産業革命以降の今日の企業経済の繁栄は、水や海、森林、大地といった環境コストを全くの考慮の外に置くことで達成できたと言える。企業経済は、水や空気をコストゼロの無尽蔵の素材として喰い潰してきた。しかし、それはここに至ってついにこの惑星の資源を枯渇させるかというところにまで行き着いた。

だから、「持続可能な世界」というのは、企業にとっては美しい理念というより、世界がギリギリの瀬戸際でなんとか踏みとどまって、地球の再生と人類の持続へと企業もまた、環境コストを分担し振り分けていく責務を持つという宣言でもある。

さて、ここからようやく「福祉」である。
「持続可能な世界」、福祉に関わるものにとっては、デジャブ(既視感)である。
社会保障制度を議論するときに必ずこの「持続可能な制度」が枕詞につけられる。年金・医療・介護は、暮らしのセーフティネットであり、ライフラインだ。
ところがこの国は世界に冠たる少子超高齢社会だ。高齢者人口は膨れ上がり、反して子供人口は縮み続ける。どう持続可能な制度にするか。
財政政策としては供給を絞りさらなる負担しかない。生活者にはこれだけでもたまったものではないが、さらに切ないのは現実はこれだけでどうなるわけではない。地球が喘ぐように、この社会もまたデッドロック寸前である。

そこで苦し紛れに、といった感じでひねり出したのが「地域包括ケア」とか「地域共生社会」である。これ自体は、「支え合い分かち合い」といった生活者の福祉力への呼びかけだから、悪いことではない。
ただ、そこにまさに「苦し紛れ」の、公的施策の空白の補完が見え透いている。
「地域の支え合い、助けあい」が、使い勝手のいい安手の施策代行機能の押し付けとしか見えないことだ。

「支え合い、助け合い」は、ゼロコストの地域資源ではない。
「地域共生社会」、私もこの社会システムへの転換しかないと思う。しかし、その主体である生活者への想像力もまたコストゼロのように思えてならない。

認知症の人と家族の会が一貫して、介護報酬改定議論での「成果主義」や、訪問介護の生活援助の利用制限に強く抗議するのは、財政の給付抑制だけでなく、その根底に「支え合う」家族や地域の力を限りなく削いでいくことにつながる、そのことに反対しているのである。
制度の持続のためには、肝心の暮らしの持続は果てしなく窮屈にしていいのか。そもそも、制度の持続可能性と、生活者の暮らしがトレードオフの関係であるはずがない。

「家族の絆」、はことあるごとに美しい言葉として登場する。
しかし、その「絆」の美名に介護や貧困、子育ての困難の全てを背負わせてはいないだろうか。「絆」とは、あたりまえの暮らしの中に交錯する思いやりや助け合いのことである。
あたりまえの暮らしには、当然コストがかかる。福祉はタダではない。
「絆」や「支え合い」がタダでそこらに転がっているはずがない。それは地域で、家族で、じっくりと時間と無形のコストをかけて育んだものだ。
十分なコストをかけることで、笑顔に彩られた豊かな「支え合い、助け合い」が行き交い、その結果として、「共生社会」が立ち現れる。

かつての世界の産業活動が環境コストを無視した見返りの気候変動、温暖化に、今度は莫大なコストをかけて持続可能の世界の再生を模索している。
「支え合い」の福祉コストをケチる事で、少子超高齢社会の持続可能性を自ら消し去っていいものか。

かけがえのない地球の環境を持続可能な世界にするために、世界はSDGsを掲げ、立ち向かおうとしている。それはかけがえのない私たちの地域の暮らしの持続可能性と無縁ではあり得ない。

Nothing About Us Without Us
私たち抜きに私たちのことを決めないで

Leave No One Behind
誰ひとり取り残さない

水と緑のこの惑星に、当事者たちの声が響き合う。

|第79回 2018.9.5|

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