認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

認知症の「希望」を語る

コラム町永 俊雄

▲あけましておめでとうございます。ヨコハマの海の日の出です。今年もこの「認知症EYES」のコラムをどうぞよろしくお願いします。このコラム、皆様の思いと力とまなざしの中に記しているつもりでいます。
人古く 年あたらしく めでたけれ 山口青邨

新しい年である。新しい年の初めには希望を語るべきだろう。
と言いつつ、考えれば、希望を語る、というのは、この新年のいっときしかないのかもしれない。それほど、「希望」の肩身はせまくなってしまった。
新年でめでたいから、ま、希望を語ろうといったところだ。私たちはいつから、「希望」を刺身のつま扱いにし、都合よく使い回すようになったのだろう。

この社会はつらさと困難と不協和に満ちていて、ほとんど「希望」の居場所はない。なくしたのは、私たち自身だ。そのことに気づくことが、希望への第一歩かもしれない。
では、認知症の「希望」はどこにあるのか。

今年、注目すべきは、認知症の「基本法」制定への動静である。
これは超党派の議員立法をめざしたい。議員立法ということは、私たちの信託を受けた代表者による立法である。当然「私たち抜きに決めないで」ということになる。ということは、と論理を縫い合わせれば、私たちの責務は、この基本法について考え、語り合うことである。
これは、誰かから与えられる希望ではなく、私たちが紡ぎ出す認知症の「希望」としたい。

そのことをしっかりと述べたいのだが、新年早々、多分、胃もたれの中、やや重い。
だから、その前に認知症の「希望」を語ることについて、年神様の見守る中、考えてみよう。

世間の「認知症」はほとんどネガティブなイメージでしか語られない。
いわく、「認知症になると何もわからなくなる、できなくなる」「徘徊、妄想、暴力、暴言(記していても、ずいぶんひどい単語の羅列だなあと思う)」といった具合で、こうした医学的認識はずいぶん変わってきたとは言いながら、根強いのは「なったら大変」「不安」「なりたくない」といった心情部分である。ここは、多分、いまだにあなたや、小さな声で言うのだが私にもあるだろう。

それでは試しにやってみてくれないか。ま、新年だし、お付き合いいただきたい。
一枚のA4の用紙を置く。真ん中に縦に線を引く。左の欄に、認知症のネガティブな要素を記す。「わからなくなる」とか「なりたくないとか」、本音の思うところを書いていこう。多分、どんどん書けるはずだ。
次に右の欄には、ポジティブな認知症について記していこう。
さて、さて、何が書けたろうか。「認知症でもできることがある」なるほど、最近よく言われているものね。実際はどんなことかよくわからないが、まあ、いいだろう。あとはどんなことを記すだろう。「共に生きる」おいおい、急に抽象的なお題目だなあ。

さあ、書き上げた表を見てみよう。左のネガティブ欄のぎっしりとした記述に比べると右のポジティブ欄の空白が目立つはずだ。
これが認知症の希望の空白だ。認知症について「不安」を記して行けばいくらでも書ける。反対に「希望」を描こうとすると、一つか二つで終わってしまう。

この社会の認知症は、ネガティブなイメージで周りを塗りつぶされた陰刻の構図で描かれている。そうではなく、「認知症」自体の発信というレジリエンスで浮き上がらせる陽刻の図とするにはどうすればいいのか。
「認知症」の希望を語ることだ。
「認知症でも安心して暮らせる社会」「認知症でも大丈夫」「認知症だからこそできること」、たとえ、「チッ、相変わらず、甘ちゃんだねえ」と、カラ元気の空回りと揶揄されてもいい。つらいのは、「認知症でも大丈夫」なんてわけないだろ、こういうことを結構福祉を語る人自身が言いふらしたりしていることだ。
語れば、実現する。そう思う。語り続けることは、暮らしに内在する最大の力だ。民衆が諦め黙り込む時、圧政が立ち上がる。

この社会の認知症に対するネガティブの総量は圧倒的である。これまで、そのネガティブな要素のひとつひとつをモグラ叩きのようにして否定してきた。
しかし、それはただ単に「言ってはいけないこと」として、人々の本音の深層に沈ませるだけだ。逆に、「希望」というものを、現実離れした党派性の中に閉じ込めてしまうだけだ。
そうではなく、「認知症」の希望を輝かせていくことでしか、「認知症とともに生きる社会」はやってこない。
だから、世間にネガティブな思いが満ちているとしたら、その均衡点に至るまでの同量の「希望」を積み上げていくことが必要なのだ。

誰が、「認知症」の希望を語るのか。
認知症の本人が希望を語る。その希望の力がどれほど大きかったことか。
しかしその一方で、それでこの社会のネガティブなイメージは解消するのか。いつまで、私たちは壇上から語られる「希望」を聴いているだけなのか。まだ認知症ではない私たち自身は語るべき認知症の「希望」を持っているのか。

去年の暮れに、安倍首相が認知症施策推進関係閣僚会議を新設し、そこで強調したのが「認知症予防」だった。これまで認知症との「共生」を施策の柱としてきた厚労省などは、方針の転換と受け止めたとの報道もあった。
この大きな声が、認知症の希望なのだろうか。

もちろん、「予防」は切実な現実の声である。本人や家族も願っている。
そのことに異論はない。しかし、それは「認知症とともに生きる」という共生社会の中に組み込まれなければならない。「予防」が、認知症を「なってはならない病」とし、今の認知症の人の存在を否定し、「認知症にやさしい社会」の実現を先送りさせることがないような「希望」であってほしい。私たちの超高齢社会の希望は、認知症の人がいることを前提に構築するしかないのだ。

認知症の本人は、地域に閉じこもっていた認知症の人を元気づけ地域に押し出し、笑顔でつながった。
認知症の人の家族は、老いた認知症の親のほほをさすってその笑顔に涙した。
まことに小さな小さな希望を積み上げて、ようやく認知症社会の扉を押し広げ、認知症の「基本法」という「希望」の誕生を見守っている。

誰が認知症の「希望」を語るのか。

かつて、この社会の混沌と不正義の中をかいくぐった歌人の道浦母都子は、決然、こう歌った。

  明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし

|第90回 2019.1.7|

この記事の認知症キーワード