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認知症当事者発信と「分断」

コラム町永 俊雄

▲ 認知症をめぐる研究も、認知症当事者の視点をふまえた論文の発表が目立っている。写真は2016年6月にイギリスからの当事者研究のフィリー・ヘアーさん(右から4人目)を迎えての勉強会。藤田和子さん、佐藤雅彦さんもいる。下段左は、エディンバラ大学の林真由美さん。

よく言われることだが、「聞く」と「聴く」はちがう。
自然に耳に入る音は「聞く」だが、しっかりと耳傾けるのが「聴く」と辞書にある。
しかし、それ以上に、「聴く」には「見て、聴いて、考えて、動き、発信する」までの能動の過程すべてが込められていると私は思う。

認知症の人が語り始めた頃、周囲の人はそれこそ五感全霊を傾けるように、その人の話を「聴く」ことに集中した。家族は手を握りしめ祈るような思いで舞台袖で見守った。「聴く」ことは支えることであり、認めることであり、願うことでもあった。それが今の認知症の人々の希望「共に生きる」へとつながった。

このような発信する本人と聞く側の濃密な関係性が、認知症の人を世に押し出し、本人の発信を、共にこの社会に位置づけ、今日の当事者の社会参画への道筋を拓いてきた。
そして今や、認知症の人の発信は大きな広がりを見せている。SNSなどを通じて軽快なフットワークで、その発信自体が双方向性を持った新たな展開を見せている。それはこれまでの運動体の広がりというより、拡散という、すでに自律的な現象性を帯びている。

この広がり、あるいは拡散をどう見るか。
ひとつは、次の局面へのいわば必然的な進化過程とみるもので、それは啓発や活動という直線的な教化の枠組みではなく、相互の感覚にランダムに浸透していき「認知症社会」への醸成につながるであろう、というものだ。

もう一方の見方は、ある危機感の中語られることで、端的に言えば「聞く」に流れ、「聴く」が失われていないかという問い直しといっていい。「聴く」ことは「見て、聴いて、動き、発信する」だとすれば、「拡散」現象は、問題意識と行動性の稀薄を招くといったもので、これはどこかこれまでの当事者活動を担ってきた側の、ノスタルジアを含めたグチのようでもある。

認知症の人の発信の広がりをめぐる二つの見方のどちらが正しいということではない。そんなことは決められるものではないし、どちらか一つを選択できるものではない。これからも様々な動き、広がりが生まれてくるだろうし、またいくつもが混在合流していくに違いない。
ただ、こうした広がりは自然現象ではない。どんな広がりを見せるにせよ、そこには私たちと認知症の本人の「意思」が反映される。

急速で大きな広がりの危うさがあるとすれば、私たち当事者の「意思」の不在のままに流れていくことである。急速な広がりの中で取りこぼしていること、見逃していることはないだろうか。
このコラムでも触れているが、先日、認知症当事者勉強会を持った。その時、「分断」という言葉をめぐって話し合った。
認知症の本人発信というが、まだ日常の暮らしには、自身の認知症について語らない人がいる。あるいは進行して語ることが困難な人々もいる。「語る人」と「語れない、語らない人」との「分断」は考えられないか、というのが報告者の東京大学の井口高志さんの提起だった。
さまざまな声が出た。

「分断」と問題化していいのか。むしろ「分断」しているのは誰か、社会の側に目を向けるべきではないのか。いや、「分断」と言葉にすることで、語るべき課題の可視化につながるのではないか。
あるいは、こんな声も。「進行」や「重度の人」の現実をきちんと語りきっているのか。当事者発信をその視点から捉え直す、聴きなおすことはできないか。

会合の後もメールで、多様な意見が行き交った。
「分断」という言葉はキツイ。朝鮮半島の「分断」をイメージした。「分断」というから、分断が生まれる。いや、「分断がない」とすることこそ、分断を生んでいることに気づくべきだ。
このあたりの声は「分断」という語感のインパクトに対する反発だろう。うがった見方をすれば、提起者はこうした語の強さで、潜在している課題を揺り動かそうとしたのかもしれない。
一方で、長く認知症の本人に寄り添う医療者や家族からは、どんなに進行しても、その人は「語る人」という実感を持つという。これは「語る、語らない」という事象というより、相互のコミュニケーションの感応なのだろう。こうした感想を述べる人に、では分断はないのか、と重ねて問えば、だれもが考え込む。それはどこか自身が分断する側に転化するかもしれないという危うい地点の自覚があるからだ。この、自身を問い続ける緊張感が、新たな広がりの原動力であり、当事者発信を深めてきた。

実はこの「分断」をめぐってはすでに先駆的な研究で取り上げられている。
私たちの当事者勉強会とも交流しているイギリスエディンバラ大学研究員の林真由美さんは、その感度のいい論文で、こう指摘している。
認知症は、近年「認知症と共によく生きる」というポジティブな本人発信として、社会や施策に多大な影響力を持つに至った。しかし、そのことは新たな課題を生んでいるとし、そこで「分断」に触れているのである。
林真由美さんはこう記している。

「この言説の含意や予想される結果というのは、「よく生きる」ことに成功している一部の声を発信する認知症の人と、認知症がより進行して意思決定したり生活の質や健康を維持したり社会参加したりすることが難しく、あるいはできなくなった人々を分断しかねない。
さらには、後者を「よく生きる」、「よく老いる」ことに失敗した脱落者として排除し、さらには差別すら生み出しかねない。
これは、すでに認知症であることで受けている社会的排除や差別に加わった二重排除や差別ともいえよう」*

当事者発信は、おそらくは今後も想定を超えた人々を巻き込んで広がっていくだろう。そのことは成果であることは間違いないが、その過程で、心地よい物語だけが拡散していかないか。認知症になってもできることがあり、不幸ではなく、希望を持って暮らす、というメッセージの表層を無意識の取捨選択に委ね「聞く」だけで、「聴く」ことの欠落があれば、それは、たちまち「聞く」側が分断する側に落ち込んでいく。

ポジティブに語る、ということが誤解されている。ポジティブに語るということは、ネガティブを語らないことではない。そのネガティブな要素を見つめ検証し、自身の中に確信を持ってネガティブを転換し、ポジティブを立ち上げることなのである。
「支えあい、つながりましょう」の呼びかけは、単なるおもいやり、心がけに滑るのではなく、「分断」というざらついた単語を凝視し、そこからつながりへと歩みだす。
その覚悟と決意に裏打ちされて、初めて「認知症にやさしい社会」であり、「共生社会」の実現なのである。
希望はいつだって絶望に寄り添う。

*精神医学 2017.8 「認知症とともに生きる人々のための権利と権利ベースのアプローチ・林真由美 エディンバラ大学認知症経験研究センター・研究交流員」

|第96回 2019.3.5|

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