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「認知症予防」と「共生」

コラム町永 俊雄

▲ 様々な職種の人たちとの認知症当事者勉強会の様子。ここでも大綱案は議題になった。仲間内の議論にとどまらず、どれだけ多様な言葉が行き交うかが活力となる。「認知症」を語り合うことは、この社会のあり方を、誰もが「共創」することにつながるのだから。(メンバーは、医師、研究者、メディア人、ケア人、行政者、認知症当事者などなど、いつも多彩だ)

政府が5月16日に認知症の大綱案の目玉とした予防の数値目標を取りやめると、6月3日、各紙が報道した。
認知症の人と家族の会などがこの大綱案に対して「偏見を助長する」として懸念を表明した声や、エビデンスない中での予防の推進は拙速だという声を受け止めざると得なかったのだろう。

まだ楽観などはできはしないが、それでも世間で認知症当事者とともに、認知症施策に対して声を上げることの成果と成熟の一歩かもしれない。

この稿は、3日に報じられた政府の「数値目標」見直しの一報を受ける前のものだが、それでもここまでのネットワークに行き交ったいくつかの声を辿りながら、単に認知症予防がいい、悪い、といった次元に留まらず、今こそ、その背後に何を見るべきかを考察してみたい。

メディアの友人が、こんな声を聴いたと寄せてきた。
以前のNHKプロフェッショナルで、「あおいけあ」の加藤忠相さんが、認知症の人の介護をこう語ったというのだ。
「社会の役に立つにはどうしたらいいのか。それは多分、じいちゃんばあちゃんが元気で、笑顔で長生きしてくれることだよね」

番組で、彼の創造性に富んだ実践の結語に置かれたこの言葉は、平明であるだけに、深い。
今回の大綱案での議論のさなかに、友人は2016年のプロフェッショナルでの加藤氏のこの言葉を唐突に想起し、これを「じいさんばあさんが長生きすることが、一番の社会貢献なんだ」と受けとめた。友人は、「こういう信念をもつ人が増え、広がることが、生き心地の良い社会への道だろうと思っている」と付け加えている。
百家争鳴の議論の場合には、それに振り回されず、こうした原則的な地点に立ち戻ることも必要だろう。

友人の思いの道筋を私なりに辿ってみる。
友人は、そこにあるのは、高齢者を生産性の低い集団とし社会の負担とする根深く潜在する施策へのアンチテーゼだとする。高齢者を負の存在とする密やかな思考は、どこか大綱案で強化される認知症予防と通底してはいないかという思いが、多分、友人にはある。

「長生きすることが、一番の社会貢献なんだ」
若夏の雲のように向日の力強い言葉だ。だが、現代では、ことさらこの言葉自体が、稀有な介護実践を積み重ねなければ獲得できないという現実も、あのプロフェッショナルは告げている。
反語として言えば、「長生きすることは悪いこと」の社会になってはいないか。

本来はそうではなかったろう。
かつては正月の床の間には翁と媼(おきなとおうな)の掛軸がかけられ、共白髪の老夫婦にとこしえの松の緑を配し、天には丹頂、地には亀が遊ぶという絵柄だった。
長寿こそが私たちの幸福の図柄だった。
沖縄では、97歳の長寿を地域あげて寿ぐカジマヤーの慣習がある。風車祭とも記し、ワラシにかえって風車に遊んで欲しいと祝宴を持つ。
長寿は、共同体の揺るぎない幸せであり、その基盤には、当然のようにして認知症の人も含めて誰もの「人間存在の肯定」が据えられていた。

いつからか、この社会は変質した。図式で言えば、こうした「幸福の図柄」を振り捨てながら、私たちはその後の経済社会を前のめりに突き進んできた。そこでは私たちの「幸福の図柄」は大量生産と大量消費の中に描かれた。かりそめの豊かな時代だった。誰もが同じ夢を見て、存分に享受したところがあるのではないか。
そして今、気がつけば、私たちは、超高齢社会と認知症社会の不安とおびえの中に佇んでいる。

なぜ、こうも不安とおびえを感じるのだろう。
認知症が、その不安とおびえの元凶なのだろうか。
「認知症になる」ということを今一度考えてみる。その不安はどこから来るのか。
実はその不安のありかを探り当てるようにすると、それは必ずしも「認知症そのもの」がもたらすものではなく、実は認知症になった時の、その周辺の地域や人々の環境因子、つまり「関係性」にあることに気づく。
自分の孤立感、家族や地域、職場との関係、そこへの繋がりが見えてこないことが、認知症への不安を生み、増大させている。

それは共同体が解体されていく過程での必然だったろう。長時間通勤と長時間労働最適化のライフスタイルは、核家族のマンション住まいを選択させ、地域と人と共同体は限りなく分断された。
なぜそうなったのか。それはとりもなおさず、私たちがこの社会を選択したのだ。
「認知症を自分ごととして考える」と、まるで「他人事」のように語る人が多い。が、それはその人の選択の集積がもたらしたこの社会の課題であり、どこかに共犯性が潜む。その痛みを感じることが「自分ごと」ではないか。

「じいちゃんばあちゃんが長生きすることがいちばんの社会に役に立つこと(社会貢献だ)」という言葉は、かつての共同体の普遍の基盤だ。それを突き崩してここまで来て、それを「認知症予防」で置き換えようとしている。

「予防」がその共同体と関係性の喪失を再生できるとは、どうしても思えない。
誰もが確定的に予防ができるのならともかく、分断された地域社会の中で、それぞれが自助努力でエビデンスのないまま認知症にならないことに邁進する社会とはどんな社会なのだろう。
人々が認知症を予防せざるを得ない社会へ追いやるのではなく、まず、つながりあい元気で笑顔で長生きできる中で、「予防」が選択肢として成立する社会であるべきだろう。

新オレンジプランのサブタイトルは、「認知症高齢者等にやさしい地域づくり」という共生社会への宣言だった。そこから「認知症にやさしい社会」「認知症とともに生きる社会」と言った共生コンセプトを掲げ、各地でまちづくりや認知症カフェ、本人ミーティングなど地道だが、地域特性を生かした取り組みに地域の人々は汗をかいてきた。
それは私たちがいったんは打ち捨てた共同体を今一度創り出そうとする、認知症当事者と住民のコラボレーションだ。

大綱案で示される予防の強化推進は、こうした取り組みの実績を反故にするのではないか。
「予防」は「共生」を侵食するが、「共生」は認知症への不安を「予防」する。

大綱案を策定した「認知症施策推進のための有識者会議」メンバーには、認知症当事者は含まれていない。
当事者の声を聴くということはどういうことか。
丹野智文氏は私のSNSに、予防が本人の意思に関係なく強要されると指摘し、こうコメントを寄せてくれた。

「予防の運動をして元気になったと言われる人もいますが、外に出るようになり、人と接する事で気持ちが明るくなったのではないかと思うのです。
私は医者ではないので真実はわかりませんが、本人の気持ちをきちんと聴いて、嫌なことはやらない事が人として必要ではないかと考えました。
なぜ私が進行が遅く元気なのか。みなさんと接して笑い楽しんでいるからだと感じています。
みなさんのおかげなのです。
ちなみに私は運動もしてないし、嫌いなものも食べませんよ(笑)」

これこそ、予防のエビデンスではないか。
丹野智文氏自身の存在がエビデンスなのである。なぜ進行が遅く元気なのかは、みんなと接し笑い楽しんでいるからだと、彼は言う。
自身が社会から承認され、交流し、肯定的な自分を確立していく、それが何よりの「予防」なのである。そしてその結果、「誰もが元気で笑顔で長生きできる」共生社会を、彼は住民とともに創り出している。
これが、予防と共生の両立でなくてなんであろう。

私は、「認知症予防」を硬直な否定の中に置こうとは思わないし、「認知症になりたくない」という素朴な人々の思いを封印しようとも思わない。
「予防」だけのむき出しの論議の前に、この超高齢社会の「認知症とともによく生きる」共生の合意の上に、初めて「予防」の選択肢が載せられるのだと思う。

大綱案は、今月には認知症施策推進関係閣僚会議にはかられ、認知症施策の「大綱」として世にでる。
ここにも認知症当事者はいないが、しかし、改めてこのことを確認しておこう。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」

|第105回 2019.6.4|