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「認知症当事者」と「対話」する

コラム町永 俊雄

▲ 仙台で、「宮城の認知症をともに考える会」に参加した。その参加者たち。当事者も全国から参加した人も、誰もがともに同じ笑顔を輝かせる。そこには確かな「対話」があったからだ。認知症の人の声を聴くということは、認知症当事者と、そして、自分自身と「対話」をすることだ。認知症当事者対話篇を考える。

仙台の「宮城の認知症をともに考える会」に行ってきた。
ここのイベントには不思議な磁場があり、そのためもあってか、全国から人が集まってくる。
その磁場とは、言ってみれば、「対話性」である。
23回を重ねてきたこの会は、認知症と時代性をテーマとし、設定としては壇上での発表形式を採るのだが、それはいつもひとつの解答に収束することを回避し、社会への幅広い「問いかけ」なのである。
だから、話し合いも発表も、調和的な成果というより、壇上から会場へ、それはつまりは外界の社会の問いかけの方向性を持つ。

この時も、開会の挨拶をした主宰のいずみの杜診療所の山崎英樹氏は、「振り返れば、最初の会のテーマは、「拘束をやめよう」ということだった。そして今ようやく認知症の当事者発信までたどり着いた」と、その歩み、歴史を語った。
聴衆の誰もが、壇上と、自分の内なる声と対話する。そんな仕掛けが秘められているようで、そこに誰もが惹きつけられるのだろう。

今回は、ここでの当事者発信の「言葉」を響かせながら、その「問いかけ」と「対話」していこうと思う。
ただ、ここでの発言はすべて認知症本人の主観である。客観的事実かどうか、また診察に関わることも、厳密にいえば医療者の見解の裏付けはない。しかし、大切なことは当事者本人が、その場で自由にどう感じ、どう考え、そして言葉にしたかと言うことだ。むしろ、本人の生の発言を私たちはどう聴くか、そこに焦点をあてて記していきたい。

シンポジュームでは、壇上に、宮城の11人の認知症当事者が並ぶ。この会では、認知症当事者を「認知症の経験専門家」とする。ここにも、この取り組みの先駆性の旗印がある。
司会役は、いつも通り丹野智文氏だ。

ひときわ笑顔をたたえている女性の語りを辿ろう。佐藤あいさんは、江戸芸のかっぽれの師範を長年続け、大勢の弟子に教えていたが、それが突然、自分がどこにいるのかわからなくなった。認知症の始まりだった。その後、不調はどんどんひどくなり、様々な医療機関を経て、ようやくたどり着いたのが、山崎英樹医師の診療所だった。

「それでね、先生は私の顔をじっと見てこう言ったの。あなたには薬は必要ないでしょう。代わりにここの「仕合わせの会(診療所にある本人同士の集い)」に月に一回来てかっぽれを踊って唄ってくださいってね。それでワタシ、すっかり元気になった」

満面の笑顔で佐藤あいさんは、こう語った。
認知症医療に何ができるのか。本人にとってそれは、「自分」を認めてくれたことなのである。認知症医療の主体を本人に置けば、「唄って踊って」が最善の処方となりえたのだろう。
おそらく山崎医師に巡り合うまでの彼女の受診経験は、自己否定の連続だった。奪われた自己の回復。そのレジリエンスが今の彼女につながっている。少なくとも本人の受け止めから見えてくることは、今の認知症医療に求められる本質的な役割ではないだろうか。

さらに当事者の発言を追っていく。
丹野氏が、「毎日の暮らしで楽しいことはなんですか」と、男性当事者に聞く。
これも認知症の人となるとすぐ、「大変なこと、つらいこと」から聞いてしまう世間へのアンチテーゼの問いかけだ。
でも、当事者の反応となると、そうは問屋がおろさない。
「楽しいこと? 別にないね」
丹野氏、ややあわてる。「ありませんか」
「そうだな、孫と遊ぶことくらいかな」
丹野氏、ホッとした。でもその男性、つぶやくようにこう付け加えた。「ひどいもんだ」

会場はドッと湧く。言うまでもなく、男性の口調は和やかなので、場が凍りつくことはない。丹野氏も、やれやれといった笑顔だし、誰もがにこやかなのである。
しかし、これは重要なポイントだ。ここには、一切の「同調圧力」がない。
ありのままの自分が保証されている証しだ。一般のトーク番組なら「チッ、空気読めよ」と言うところだが、それがない。それがないことがどれだけ伸びやかな「安心」につながるか。
「認知症に安心の社会」のひとつは、こんなところにある。

「認知症という言葉はイヤだ。認知症と診断されて、あちこちに「認知症」というレッテルが貼られてしまった。昔なら、あのおばあさん、ボケちゃったねえ、で済んでいたのに、今は「認知症」とあちこちで言われて、そんなのは自分じゃない。他のいい呼び方を考えてほしい」
どうしても言いたいと、初めて登壇した男性が、立ち上がって身ぶりを交えて訴えた。

かつての痴呆症が侮蔑の意味合いがあるとして、認知症に呼称変更された。それは、認知症環境の前進の象徴的出来事だったはずだ。
しかし、この本人の訴えは、それを告発する。認知症の呼称自体が今なお、大きなスティグマにまみれているではないか、と。
「認知症」の呼称変更の意味合いは、むしろ退行、あるいは逆行しているのではないかと男性は訴えている。「ボケている」の表現の方が、はるかに、人間の言葉であった、と。
これは、認知症医療や施策への告発であると同時に、「認知症にフレンドリーな社会」の虚飾をも糾弾している。
「鋭い指摘ですねえ」、山崎氏は、そうつぶやいた。

「対話」とは議論やディベートではない。
「ボームのダイアログ」とされる古典的対話論がある
物理学者で思想家、デヴィッド・ボームは「ダイアログ」の概念を提唱した。
彼によれば、
「ダイアログとは人びとの間の意味の流れのようなものである。この流れは参加者一人ひとりの視点を通って流れていく。 このような意味と情報の自由な流れこそが、文明を変化させ、誤った情報の破壊的な作用から解放し、創造性と自由を生み出すのである」

対話によって、それぞれの話の受け止めに「違い」を見出す。大切なのは、その「違い・差異」を「同じもの」にするのではなく、それぞれの「違い」の共通の視点の、「あらたな場所」をともに探し、生み出すことが対話であるとボームは説く。
ボーム自身、マンハッタン計画にも関わった物理学者で、その後、人類社会に深い懸念を抱くに至ったことを考え合わせると、彼の「対話」にかける想いの重量を思う。

ある女性の当事者の言葉は重い人生の物語だった。
「私が認知症になったのは、大震災のとき、嫁いだ娘がくも膜下出血で死んでしまったのがきっかけだと思う。食べられず眠れず、涙の中で死にたいとばかり思っていた。お医者さんからは山ほどの薬ばかりもらっていた。
それがここに来て、(ピア・サポートの)他の仲間と出会って、そこにいるだけで、具合が良くなった。今も、用もないけれど山崎先生の顔を見に来る」

壇上のピア・サポートの仲間が笑顔でうなずく。そのうなずきに励まされるように、その女性、星照子さんは言葉を継いだ。

「私は、それ以前から障がい者なの。義足をつけても杖をついても、歩くのがとにかく大変。でもね、今はこんなに仲間がいて、会いに行きたいから杖ついて出かける。
夜、お風呂に入るとき、こちらの足の、この義足を外してね、ああ、今日はいい一日だったなあ、その時、そう思うの」

人間の尊厳。
うなずきは、壇上から会場の聴衆へと、深い感情のさざ波となって広がった。
それぞれは、胸の内にどんな「対話」をかわしたろうか。

|第109回 2019.7.11|