認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

認知症ケアは時代遅れなのか

コラム町永 俊雄

▲ 認知症ケアをテーマにした当事者勉強会のメンバー。認知症との共生の時代だからこそ、認知症ケアを語ろうと、集まった人々だ。写真下左から、堀部賢太郎氏。鬼頭史樹氏。町永、そして看護、介護、認知症ケアの歴史を歩み、道拓いてきた中島紀恵子氏、前田隆行氏。次回の勉強会は、その中島紀恵子さんと語る。美しい銀髪を揺らめかせ、何を語るか。

三鷹で認知症当事者勉強会が開かれた。テーマは「認知症ケア」だった。
案内文にはこう記されている。

「認知症とともに生きる社会」を実現するためのかなめになるのが「認知症ケアの力」のはずだが、その実力や潜在力について私たちはどれだけわかっているだろうか。「共生社会」の時代に、「認知症ケア」は時代遅れか? もう十分語られたのだろうか?


これはなかなか挑発的な問いかけでもある。
「認知症」に関して言えば、これまでの医療やケアの対象となることから解き放され、認知症の当事者自身の自立や自己決定を基盤に組み直す「認知症とともに生きる」という共生モデルへの転換が広がる。
そんな中で「認知症ケア」をどうとらえればいいのだろう。
「認知症」を個別の疾患の課題と狭くとらえるのではなく、誰もの課題と置き換え、この少子超高齢社会のパラダイムシフトとするのが、共生モデルでの「認知症」の位置付けだろう。
その時、「認知症ケア」は何ができるのか。社会の動きの中に埋没してしまうのか。それだからこそのフロントの役割があるのか。

報告者は、町田でDAYS BLG! の活動で、今や世界の注目を集める前田隆行である。
実は彼の取り組みもとらえどころがない。とらえどころがない、ということは、「福祉的」規範の呪縛からどれだけ遁走できるか。それが彼の取り組みの最大の特色でもある。

彼は、常々、これまでの福祉の枠組みの限界を指摘する。福祉の発想を解体した地点に、BLG! の取り組みを組み立てている。それが一番よく現れたのは、報告の冒頭で、取り組みの柱として提示した三項目だろう。彼自身「シンプルです」という。それは、

想いを形に
あたりまえのことをあたりまえに
素になれる場所

これが前田隆行の考える「認知症ケア」だという。
前田の示すこの言葉には何か、たっぷりと水気を含んだみずみずしさがあふれているようだ。ここにあるのは、これまでの介護やケアを語る言語体系とは別の系統の発想がこめられている。
前田のこの提示に、会場全体はふーむ、という感じとなった。どう読み解くのか、前田は解説することを極力回避する。それは、解説することで、マニュアル化してしまうことを恐れたのではないか。ケアとは常に動態である。認知症の利用者(彼はメンバーさんと呼ぶ)との関係性の流動性、相互性といったものを固定化してしまっては、前田の取り組み自体が消滅する。
ただ、前田隆行はこう言う。「シンプルだから、とても難しい」
では、その難しさとは何か。

例えば、「あたりまえのことをあたりまえに」。
ここには、反語として、認知症の人から「あたりまえ」が収奪されているという前田の認識がある。どこかに彼の、この社会の理不尽への怒りも感じられる。
オーストラリアのケイト・スワッファーは、認知症と診断された瞬間に、その人の全ての権利が奪われると告発する。権利を「あたりまえ」に置換することで、日常の暮らしの場での認知症の人をめぐる風景がくっきりとする。
だから、これは前田の認知症のメンバーさんの権利の回復闘争と見ることもできる。それを軽やかに日常の「あたりまえのことをあたりまえに」と表現することの決意やら覚悟を含めて、彼は「難しい」といっている。難しさは前田の手の中にあるのではなく、社会の側が生み出している、と。

しかし、このフレーズにはもろ刃の剣の危険性も潜む。
それは「あたりまえ」とは何か、ということである。私たちの日常の同調圧力を物語るフレーズが、この「それがあたりまえだろ」なのである。「あたりまえ」といったとたんに、誰かのあたりまえとされる価値観が、誰かに押し付けられ強要されてしまう。

認知症の人のつらさや困難というのは、認知症がもたらすよりも、周囲の「そんなあたりまえのこともできないの」というさりげなさに隠された言葉の刃にある。
「あたりまえ」に取り囲まれた生きづらさは、認知症の人、引きこもりの人、自閉スペクトラムの人、そうした当事者の声を聴くことでしか見えてこない。

世のスティグマとしての「あたりまえ」を、権利としての「あたりまえ」に塗り替えることができるか。それは周囲の人々の中にスティグマとしてうずくまる「あたりまえ」を、認知症の人自身の「あたりまえ」に置き換えることができるか、という自身への問いかけだ。。

前田の取り組みは、実は「問い」を立てることの連続なのだ。「あたりまえ」とはなにか。
「想いを形にする」とはなにか。「素になれる場所」とは、と。
認知症ケアを考えるということは、妥当な対応を「答え・解」とするのではなく、自身に「問いを立てる」ことの連続なのだとしている。

実は前田隆行は、自分の活動を「認知症ケア」として語るのはどうも居心地が悪そうだった。旧来の福祉観からの遁走によって、BLG!を創成したという自負があるのだろう。

地域の先駆的な専門職にも、「認知症ケア」と言う用語に違和感を持つと言う人が多い。
この勉強会に参加した、名古屋で認知症に関わる気鋭のソーシャルワーカー、鬼頭史樹は、
「当事者主体が言われる中で認知症ケアの言葉を使うとき、どうしても「専門性の権力」を警戒する気持ちが起きる。どこかで「やってあげる」に傾斜してしまうのではないか。自分の中にも、専門性に距離を取りたい自分と、専門家としての自分が混在する」
このように率直に語る。
それでは「認知症ケア」の支え手とされている専門職は、どんな役割を持つのか。

現在、国立長寿医療研究センターの堀部賢太郎は医療者であるが、以前は厚労省の認知症施策対策室(現・認知症施策推進室)の専門官として行政の辣腕を振るった。
その堀部は、「認知症ケアを語るときに、理念だけではなく、ケアには非対称性の側面があることをとらえておく必要がある。端的に言えばケアは、サービスの提供と受益という関係性に機能する」と指摘した。

これは重要な指摘である。
「情報の非対称性」とは、経済や金融の分野で使われる言葉だが、介護保険の制度設計の時にもよく使われた。
認知症ケアに関して言えば、ケアする側と本人との両者には、情報の格差が生ずる。ケアの提供者が圧倒的な情報を持ち、対して認知症の人は、無力の情報しか持たないとされた。だから、そこに、専門職の鬼頭史樹が警戒する「専門性の権力」が生ずるというわけだ。

よく「支援」するは、「してあげる」と恩恵と憐憫だから、ふさわしい言葉でないという声があるが、ここには主観としての情緒に傾きすぎるきらいがある。これを「情報の非対称性」と、中立客観の乾いた言葉を使うことで認知症ケアへの別の視点となるだろう。

現在の認知症観の共生は、これを「対称性」としてとらえている。誰もが考える問題、という風に。あるいは、彼我の情報は同量で水平に行き来するのであり、フラットな関係、という風に。

では、本当にそこに「認知症ケア」は成立するのだろうか。
前田隆行の取り組みが注目されすぐれた実績を示しているのは、前田の側に圧倒的な技量と経験、見識の情報があるという「非対称性」だからではないか。
それとも、その非対称は、前田の側に情報があるのではなく、むしろ認知症の本人の側が持つ情報こそが、圧倒的な質量なのであり、前田隆行の実践はそこを顕在化し、活性化、交流させることで成り立っているのだろうか。
いやいや、それともそこには完全にフラットな仲間、メンバーさんとしての「対称性」の関係構築があり、そこにこそ、前田の考えるケアが成り立つという実践なのだろうか。
そこがよくわからない。

この時代の「認知症ケア」の概念は再定義され続けることが必要なのだろう。
「認知症ケア」の多義は、可能性でもある。だから、「認知症ケア」を時代遅れとするのではなく、「認知症ケア」を語ることで、認知症と社会のあらたな関係を見出せないか。

「認知症とともによりよく生きる」、この潮流の中にこそ、「認知症ケア」のリフレイミングの必然があるはずだ。
なぜなら、今、「認知症とともに生きる」という共生モデルを表面的に歓迎しているだけでは、そこに潜む大きな陥穽に気づかない。
それは、現在の「生き生きと自立と自己決定する」としたひとくくりの、ステレオタイプの認知症モデルの再生産は、ともすれば、孤立し貧困の中の高齢者認知症の人々や家族を不可視化してしまうことにもなりかねないからである。

本来の当事者主体とは何か。本来の「認知症とともによりよく生きる」とは何か。
「認知症ケア」が、今、社会に向かって、認知症大綱の空白に向かって、「問いを立てる」ことが必要ではないだろうか。
(文中敬称略)

|第115回 2019.9.20|

この記事の認知症キーワード