認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

認知症の人の「家族」の力 〜「認知症と共に生きる」ために〜

▲ 認知症に関わるあらゆる人との「対話」を重ねる。率直な声を交わしながら、新しい何かが生まれ、時代の意識がゆっくりと変わっていく。認知症の人が語り、地域の人が語り、そして家族が語る。小さな「対話」の確かな力を信じるしかない。

ブラームスのような秋の夕暮れ、灯火の下チクチクと文章を綴る。
「しかし」とか「けれども」と言った逆接の接続詞をなるべく使わないようにして文をつなげていきたい。そうした方が、人の思いをすくいとることができそうな気がする。

「しかし」と、逆接の接続詞を置けば、その時点で、その文章の前節はほうむり去られ、そこにある人の思いを消し去ってしまう。
「しかし」と、次々に繰り出していけばキビキビと軍隊の行進のように、あたりを蹴散らかし、「答え」に向かってズンズンと前進していけるのに・・・

対して、「だから」「だとすると」「あるいは」と言った具合に順接でつなぐ文章は、どうも、文尾が「かもしれない」や「だろうか」、「ではないか」と言った曖昧でぼやけた区切りで終わるしかない。
あるいは、それは単に私の、曖昧でぼやけた性格のせいなのかもしれない。

以前のコラムで、「認知症と共に生きる社会」には、「家族」が変容することが必要ではないか、といったことを記した。(10/1「認知症の人と家族」は、ひとくくりで語れるのか
認知症の人を介護する家族からは「こんなにがんばっているのに」という穏やかな非難とつぶやく嘆きも寄せられた。家族を非難するつもりも否定するつもりも毛頭ない。それでも、家族の心情のどこかを傷つけてしまったのではないか、そのトゲはいつまでも残った。

あえて言葉を重ねれば、家族が「がんばっている」ことに基準のラインを引いて、そこから「認知症」を考えること自体を変えなければならない。
「がんばっている」家族へかぎりない共感は持つが、そのことの繰り返しは、結局「がんばらざるを得ない」状況の容認になり、「家族の絆」は、社会保障の空白を埋めるための、この社会の使い勝手のいいhidden asset(ヒデンアセット・隠された資産、含み資産)としてつけ込まれていく。

介護保険を含む社会保障制度では、2013年に社会保障制度改革推進法が公布され、そこで打ち出されたのが「持続可能な社会保障制度の確立」だった。
つぶさに見ればそこにあるのは、給付と負担のバランスという財政的視点しかない。その結果何が起こるかといえば、負担増とサービスの縮小なのだ。
制度は持続可能になっても、認知症の人と家族の暮らしの「持続」はあやうくなるだろう。
確立すべきは、持続可能な「制度」ではなく、持続可能な私たちと次世代の「暮らし」なのだ。

少子超高齢社会の持続可能性のためには、「公」が何をどこまでやるのかという議論が先行すべきだろう。ナショナル・ミニマムという私たちの社会の基盤がある。
「国が国民に保障する最低限度の生活のための必要基準」と解釈されているが、貧困や格差、超高齢社会のミニマム、基礎としての「公」の責務を捉え直すことが必要だ。
実は、2009年、厚労省に「ナショナルミニマム研究会」が設置され、そこでは社会保障を「コスト」ではなく、「未来への投資」と位置付けている。本来の持続可能性とはこういうことだろう。

それを「家族の皆さんのご苦労はよーくわかります。がんばってください」とネコナデ声を発しつつスルスルと後ずさりする「公」を、結果として「家族のがんばり」は容認してしまった。
介護家族の「家族のがんばりもわかってもらいたい」という言葉は、誰も否定できない。しかし、それを発するたびに、その分「介護の社会化」がどこか霞むような気がしてならない。

「がんばる」ことは、この勤勉な国民性の美質である。
みんながんばる。そのことは否定できはしない。だが、忘れてはならないのは、この社会には「がんばりたくても、がんばれない」人々がいる。「がんばらない」のではなく、がんばれない人々だ。もちろん、がんばれない家族もいる。
「がんばる」人は、まずもって「がんばれない」人のことを考えてほしい。

なにより、認知症の人は「がんばりたくてもがんばれない自分」を抱え込んでいる。
そのことを言葉にもできず、情けなく哀しく思っているのが、認知症の人なのである。その一番身近に「がんばる」家族がいて、家族が「がんばる」としたら、認知症の人にすればさらにつらい。そのがんばり方は、認知症の本人の声を聴いてもらうほかない。

認知症の人は、なぜがんばりたくてもがんばれないのか。認知症のせいなのだろうか。
そうではなく、がんばることをひたすら美徳とするこの社会の圧力が、多くの「がんばれない人」を生み出し追い詰めている。
「認知症と共に生きる社会」とは、「がんばらなくてもいい」を誰もが受け入れる社会システムと私たちの思いだ。

このことは、それぞれの家族単体の責としてはならない。
実はこの社会は、振り返ればずっと「家族」にあまりに重い負担を強いてきている。それを「家族の絆」の美名の下にまた、家族が懸命に担ってきてしまったのだ。
私は今、「認知症とともに生きる社会」に確かな権利の視点を据えるために、以前に担当した障害者制度改革推進の資料を読み返しているのだが、そこに文部科学省が平成22年に出した「日本の障害者施策の経緯」という意見書がある。
そこに「家族」がこう記されている。少し長くなるのだが、引用する。

「なお、日本の障害者に対する介護は家族中心であり、福祉・教育・医療を含む生活全般を家族に依存している。この深刻な家族依存は、家族に重い負担を課し、障害者に対する重大な人権侵害となり、あるいは社会的入院・入所の要因となっている。

精神保健福祉法が改定(1999年)されるまでは、精神障害者の保護者は、日々の生活の介護だけではなく、治療を受けさせ、他人に害を与えないよう監督する義務を負わされていた。

1998年、仙台地方裁判所は親がこの監督責任を果たさなかったことを理由に1億円もの損害賠償を命じ、ようやくその理不尽さが広く理解され、自傷他害防止の監督義務だけは法文から削除された。しかし、依然として家族の責任は軽減されていない」


明晰な分析である。いうまでもなく今の認知症施策は、その要素の多くを障害者権利条約以降の動向から引き継いでいる。この意見書の障害者を、認知症の人に置き換えて差し支えはないだろう。それにしてもこの意見書が厚労省でなく、文科省から出されたことに、厚労行政の潜在する体質への何らかの意味があるのだろうか。そこはよくわからない。

長い歴史の中で家族は、この社会の歪みもずっしりと背負わされながら、懸命に障害者や認知症の人を支えざるを得なかった。がんばらざるを得なかった。もうその重荷を降ろしてもいいのではないか。分かち合ってもいいのではないか。
認知症の人々が声を上げたのは、ひとつには、その家族の重荷を少しでも軽くしたいがためだった。

「しかし」でも「けれども」でもなく、「だから」という、つなげつながる接続詞をそっと置くようにして、
「だから、家族は変わらなければならない」。

▲ 認知症の人と家族の会代表理事の鈴木森夫さんと。家族の会は、単にセルフヘルプグループの枠にとどまらない、この認知症社会の堅固なインフラである。そこに集結する家族の声は、この社会の不安と希望だ。誰もと分かち合うべき声だ。

|第118回 2019.10.18|

この記事の認知症キーワード