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「認知症は社会をケアする」とはどういうことか

コラム町永 俊雄

▲「認知症」はすでにこの社会の混迷を解き明かすキーワードである。地域福祉を語るとき、そこに「認知症」を据えて語れば、向こうの建築物に渡る確かな桟橋が見えてくる。「認知症をどうするか」を越え逆転させて「認知症がこの社会をケアする」時代が拓く。

「まだまだ寒いわね。一人で暮らしているから、部屋はなかなか暖まらないでしょ。コタツに潜り込んでも、それでも体の芯がとても冷たい。ある時、気がついたの。寂しいからなの。寂しさって、冷えるの。身体も、そして心が冷えて冷えて・・」

本人の声を聴くということは、自分の中の声を聴くことだ。状況を聴くことだ。冷たく縮みこませるその人の寂しさを自分の中の氷塊として感じ取れるか、痛みとして感じられるか。聴くことは何かを引き受けることだ。

認知症の医療研究会で、そんなことをぼんやり考えていたら、仙台の石原哲郎医師がやってきて、「町永さんがよく言う「認知症が社会をケアする」ということについてもう少し教えてもらえますか」とノートを広げながら隣に座った。

石原医師といえば国際的な動向も踏まえて、各地で認知症を語り、自身地域活動にも邁進するエバンジェリストである。英知を示す広大な額をきらめかせてそう聞くには、私が言い散らかしている何処かが、彼の鋭敏なアンテナに引っかかったのだろう。

その時は時間もなく概説的な説明だけに終わったのだが、それ以来、そのことを考えた。
「認知症が社会をケアする」とはどういうことか。

私自身、以前にはよく「認知症が拓く新時代」と言っていた。
認知症当事者発信が盛んになり、新オレンジプランが策定され、京都でADI国際会議が開かれ、その機運の中、その頃はよく「認知症新時代」と言われた。
しかし認知症新時代というのは主体がわからない。どこからか舞い降りてくる「新時代」ではなく、認知症を主体、主語として社会の変革を示したほうがいい、だから「認知症が拓く新時代」とした。今思えば気負いにあふれた言葉である。

しかし以来、このことは私が認知症を考えることの定位となった。
認知症を「問題」として捉え、認知症をどうするかという発想ではなく、この社会の中心にデファクトスタンダートとして認知症を組み込んで、その視点から周囲を見渡す。認知症を前提として社会の枠組みを組みなおす。社会の明確なパラダイムシフトであり、この頃これを「認知症革命」と言ったりもしていた。今思えば気負いにあふれていた。

認知症を私たちの中心に据えると何が見えるか。それは私たち自身の認知症観の再定義だ。
これまでいつも認知症は「問題」「課題」として語られてきた。そうなのだろうか。
認知症の最大のリスクは加齢である。だから、超高齢社会の現実からすれば、認知症は誰もがなりうる。となれば、それを常に問題化するということは、年をとることを問題化することである。そう、この社会は「年をとることは問題だ」と喧伝している社会である。

老いも認知症も、そのスティグマは広く深く共有されてしまっている。
老いていく自分は、生産性が落ち、衰退していく自分であり、社会に無用で、金のかかる社会の負担となっていく。意識、無意識にかかわらず、そう思い込む。本人だけでなく周囲がそう思い込んでいる。

エスカレーターで高齢者を駆け抜き、レジに並ぶ高齢者の後ろで舌打ちし、電車の優先席で眠ったふりするあなた。高齢者たちは時間差での自分の姿だという感覚を誰もがあえて遮断している。そこに自分を見ないようにしている。
超高齢社会とは来てはならない社会で、高齢者が増えることを問題とする記事で報道は溢れている。
だから、この社会全体が、年をとることを問題化しても違和感を持たない。実はそれは、未来のあなたを「問題化」し、否定していることに気づかない。この社会の根本的な貧しさは、自分の未来を閉ざしながら今を生きていることだ。

街角で、あるいは電車の中で、老人を見るまなざしがいつも衰退した人として眺め、ついに豊かな人生の人と見ることがなくなってしまったのなら、そのことがどれほどこの社会を傷つけているのか。

認知症が社会をケアする、とは深く傷ついて膝を屈したこの社会の回復を担う。
認知症を中心軸において、この社会を考えるということは、実は認知症を考えることではない。認知症のまなざしを借りて、この社会の当たり前とされてきた暗黙のルールの正当性を洗い直すことである。
若々しくて明るくて元気なことが良くて、努力すれば必ず報われるといった誰もが当たり前に受け入れている、世俗の社会規範がどれだけ、小さな声や存在を不可視化してきたのか、そのことに気づかせてくれる。

努力すれば必ず報われる、ということは現実にはなにも保障されてはいない。にもかかわらず、この言葉は、その先に成功や出世という幻のニンジンをぶらさげて、若者の耳元にくりかえし囁かれ、彼らは一直線の生産性と効率性の産業兵士に仕立て上げられ、駆り立てられてきた。
そうはいっても「努力すれば報われる」という人生訓自体はこれまでその汎用性から多くの世代で受け入れられてきたし、ある意味日本の繁栄の基盤でもあったかもしれない。
ただし、それは「努力すれば報われる」社会が存在している事が必要なので、今の若者は、すでにそこに見切りをつけている。一旦そこから外れれば、受け止めるセーフティネットなく一気に底辺にドロップアウトする恐怖を肌身に感じている。

「努力すれば報われる」というのはある意味で暴力的な言葉である。失敗は、その人の努力が足りなかった証左であり自己責任で、「努力せよ」と駆り立てた側の責任はなんら問われない。努力が報われる社会の構築責任は、突っ走る若者の努力次第に先送りされている。
これはまるで現在の230高地の突撃である。

そういったことのあれこれを誰もが、これはおかしいと気づき始めている。
そこに認知症の人が、その社会の先頭に立って発信を始めたのだ。
認知症の人は言い換えれば、人が生きて、老いて、そして死ぬことを、意識的に、自覚的に歩むミッションの人なのである。
暮らしの中で、認知症であること、そして自分の宿命的な衰えを自覚した時の衝撃と不安から、認知症の人は一つひとつのリスクを自分のたなごころに置くようにして眺め考えて、実は認知症のリスクの多くは、疾患よりも社会の側に組み込まれていることに気づく。衰えは宿命ではなく、分かち合いつながることで維持できることを発見する。何より、自分たちで地域社会は変革できることを実感した。
当初の素朴な「認知症でもできることがある」はどれほどの気づきの喜びに彩られていたことか。

これを認知症のケア力として算定するとどうなるか。
認知症の当事者発信は、まず人々の認知症観を是正し、ついでその周囲の人々のつながりを作った。地域行政も施策が呼びかけてもなかなかできなかったことがなぜできたのだろう。
それが当事者発信の強さだ。自分の言葉で自分の弱さを公開し、正義を語るのではなく、水平に問いかける形が、地域の市民性を刺激し、協働を根付かせた。
認知症の当事者発信は、認知症を超えて、若い世代や子育て世代の生きづらさに共鳴し、この社会の根深い歪みを見出し、広範な変革に育っていく。

言っておかなければならないのは、これは何も「認知症」が「与えた」のではなく、そのことで地域の生活者の「気づき」を引き起こしていったという事だ。
「そうだ、私たちはこうあったほうがいい」、本来の地域と住民の美質に目覚めるような、認知症の人との相互の関係性が生まれたことに留意すべきだろう。

認知症の人はさらに自身の存在を見つめていく。認知症の「進行」である。
そこでは、認知症の進行に向き合う中で、地域社会資源につなげるルートを幾筋も作った。進行は個人で抱え込めば衰えのリスクであっても、地域に開いていけば、それは地域社会の再生と強化に組み替わった。それはまた、豊かに老いていく地域社会の創造にもなった。

そして、認知症の人が見つめるのが、「喪失」である。
失われていく自分。失われていく家族と仲間。失われていく自分に関わる記憶。
人は誰でもどこかの時点から喪失の旅路を歩む。どこかの時点から、人はかけがえのないものを次々に振り棄てるようにして喪失の旅路を歩む。子は人生のどこかで親の喪失に出会う。ひと組の夫婦は、長い旅路のどこかで伴侶を失う。それが世界の秩序であり、摂理でもある。

認知症の人が、喪失をどう捉えているか、私には分かるすべはない。
しかし、誰にも訪れる喪失に、真摯に誠実に意識的に向き合うことができるのは、認知症の人なのだろうと思う。
喪失は悲哀である。生きることには避けがたい悲哀がある。そのことをごまかすことなく、きちんと向き合い受け入れ、喪失という悲哀を抱きしめることで、日々の暮らしのかけがえのなさや、日の輝き、ほおをなぶる風のいとしさ、そんな自分を取り戻すことができる。
喪失から生み出す何かがある。それは人間存在の深いところからのメッセージである。

超高齢社会は、個別の課題を並べたてモグラ叩きするように取り組んでも、それはひとりの人格を課題ごとに切り分け問題化してソリーションを当てはめようとする果てしない消耗戦だ。が、そこに「認知症」を置けば、くっきりと地域社会が立ち上がる。誰もが共有できる再生の道筋がうかびあがる。

「認知症」は、今一度、この社会を「人間」の地点にまで引き戻して考えようと言っている。認知症の人がかつて、医学や介護モデルの幽閉を脱し、「私は私である」と宣言したように。
この社会は「人間」の社会となっているのか。認知症にまとわりつく一切合切も含め、それを突き抜けて立ち戻る地点は「人間」であると、「認知症」は指し示す。

それが、「認知症は社会をケアする」

|第130回 2020.2.14|