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新型コロナウィルスの感染者と認知症当事者が見た おなじ風景

コラム町永 俊雄

▲新型コロナウィルスは、いつ収束するのだろうか。私たちはただ事態が幕を降ろすのを待つしかないのだろうか。実は私たちは先行する広範な地域活動を積み重ねてきた。「認知症とともに生きる」である。それは私たちが芽吹かせた地域の基礎体力だ。では、そのことと新型コロナへの対応は別個のものなのだろうか。

今回の新型コロナウィルスの事態で、今なお感染してしまった人の姿がほとんど見えていません。見えていないというのは、実際に見えるか見えないかではなく、その存在がこの事態に可視化されていないということです。 

「感染者」は常にその増減が「数字」で表され、場合によってはその「数字」の行動がトレースされ、濃厚接触情報として、その人の暮らしが丸裸にされていきます。それはまるで、ひとりの個人を、レーダーに明滅する輝点として追尾するようなものです。にも関わらず、感染した人の実在は見えないのです。感染した人の思い、つらさ、不安、あるいは希望というものを、私たちはほとんど共有することなく、この事態の推移に巻き込まれています。

「感染者」となった人の視点から見ると、この社会はどのように映るのでしょうか。
感染してしまった人は、隔離され、接触を断たれ、世間から見えない存在にされます。ウィルス感染の不安もさることながら、何か自分の存在を否定されてしまうような体験をするのです。
その既視感は、ある意味で認知症の当事者が語っていたことと重なります。
もちろん、認知症とウィルス感染とは疾患としては全く違います。ウィルスは感染しますし、治療法は確立していないとはいえ、回復する場合も多いのです。

しかし、認知症当事者が、認知症とされた途端、疾患のレッテルを貼られ自分の暮らしや自分自身の存在を奪われてしまったと語る点では、認知症当事者も感染者も同じです。彼らは、この社会には容易に人を排除し否定できる仕掛けが潜んでいることを見てしまった当事者と言えるのです。日常に潜む深淵を覗き込んでしまった当事者です。

今、この事態に対して、緊急事態宣言が出せるようになりました。それは人権と私権を制限できるということで慎重運用を前提に、大方はこの事態に限っては認めています。
しかし、この緊急事態宣言はすでに出されているのです。現在、感染者個人に対しては、隔離し、接触を禁じ、行動も制限されています。感染者の権利は停止しているのです。このことを考えれば、感染者個人に対しては、緊急事態宣言が言い渡されているようなものです。

憲法13条は、人権保障の基本原則を定めていますが、そこにはこうあります。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

最大の尊重を必要とする基本的人権を制約できるただひとつの権能、それが公共の福祉なのです。言い換えれば公共の福祉というものは、それだけ最上位にあるのです。
となれば、このウィルスが問うものは、感染対策や国際協調政策などを突き抜けて、実は、この「公共の福祉」が私たちの側でどれほどのしっかりとした合意を持っているのかが試されているとも言えるのです。

なぜなら、人権を制約できる公共福祉のひとつの要件に、「ある人の権利の行使が他の人の権利を侵害する場合」というのがあります。つまり、感染している人が勝手に出歩くという行動の自由が感染リスクになり、それは他者の生命の侵害とされ、だから隔離できるのです。

感染者の人権の制約が、「今この事態なのだから」ということで、効果ある対策として展開されています。そのことの是非を言っているのではありません。公衆衛生や経済などの現在進行形の対策の全てがなんとか、感染を封じ込めることにつながってほしいと切に思います。

それとは別に、今息潜ませるようにしている私たち生活者の側にも、やらなければならないことはあるはずです。そのひとつが、私たちはこの状況を受け入れざるを得ない「痛み」をどれほどにもっているのか、なのです。
今、私たちは実効性ある対策として、他者の人権収奪の上に、かろうじて感染を封じ込めようとしているのです。「緊急事態」というのはこのことです。私たちの存在の基盤を侵食させてまで食い止めなければならない「緊急事態」なのです。その「痛み」は、果たして共有できているのでしょうか。

感染者の権利の停止は、そのほかの全ての人の総力を挙げた支持と合意と応援があって、初めて成り立ちます。それが「公共の福祉」ということです。
感染者に対して、「あなたは私である」というメッセージをそれぞれの心中に育み、自分が感染者になった場合にも、それが他人の権利を損なう恐れがある以上、自分の隔離を受け入れることを(つらいはずですが)自分に課することになります。

それが、基本的人権の基盤を守るということです。権利の移譲を認める耐えがたい「痛み」を共有することです。
それが、「認知症とともに生きる」という取り組みの中の核としても言われている「自分ごと」ということの本質です。「つながる」ことの本質です。

「自分ごと」あるいは「つながる」というのは、いつも陽性の文脈で語られますが、実は自分の善意の配分ではなく、自分自身を削るような、つらさを伴う検証なのです。
自分の側の都合のいい「認知症の人」との選択的イメージとともに生きるという「自分ごと」や「つながる」ではなく、絶望や不安の中の人との立場交換までもくり込んだ上で、それでも「自分ごと」とできるかが、問われているのだと思います。
今回のウィルスは、それを、理念というより、今そこにある危機として、私たちに突きつけているのです。

さて、この事態はそうそうに決着しそうにはありません。
ウィルスは、私たちの権利や日常の暮らし、交流、活動のほとんどすべてを凍結させました。この状況をただやり過ごして、「うまいこと」収束するのを待つだけというのは、あまりにもったいないし、怠惰でしょう。
この経験を抱きしめながら、私たちが考えておかなければならないのは「ポスト・ウィルス」のことです。

いつの日か、それがなるべく早いことを祈りますが、このウィルスの事態が収束した時には、今度こそ具体的な生活者の生活実感に根ざした地域を回復させていかなければなりません。

この社会の脆弱を見た感染者の経験を生かすためにも、今度は、認知症当事者との協働に加えて、感染した人の体験と共に、地域共同体を取り戻していくのです。

この事態をくぐり抜けた私たちの大きな力は、誰もが等しく、この状況を生き延びようとしたことです。「ともに生きる」という実体験をしたのです。
それは互いに隔絶した立場でありながら「つながる」ことは可能であり、互いに違っていても認め合うことで、「ともに生きる」可能性を見たからです。仲良しや同一化の共生ではない新たな自分自身の姿を見たのです。
それは理念と現実を合一させるという稀有の共同体験になった、と私は思います。

「つながる」ことをウィルスは徹底的に分断しました。しかし、「ともに生きる」という理念がこれほど確実でなければ、ウィルスによって「つながる社会」は解体されてしまったはずです。この事態の後、私たちが見るのは、ズタズタに解体された地域なのか。それとも共生へより生き生きと再起動する地域なのでしょうか。

もちろん、まだ何の収束もしていません。世界を見ればさらに過酷な状況になっています。だからこそ、私たちは「この後」にまで視程を伸ばして、開かれるべき世界の扉の前に常に心を置いておくことが必要なのだと思います。

今、政治家はこのウィルスの事態を「戦争状態」「戦時」「打ち克つ」と勇ましい言葉で語ります。ことの深刻さの反映だとは思いますが、あまり(まったく)鼓舞されないのはなぜでしょうか。

私たちは、何を持ってウィルスに対抗可能か。それは一口で言ってしませば、地域のそれぞれが市民的成熟を目指すことしかありません。
誰かの「奇策」や「独創」や「大きな強い言葉」ではなく、一人ひとりが自分たちで考え、発言し、対話を育て、つながりある「共生」に取り組むことだけが、常に新しい次元を切り拓くことが出来る、それが市民的成熟です。

そして再び、世界と地域が広々と開かれて行くとき、それが本当に「ウィルスに打ち克つ」ということだ、私はそう思います。

▲桜が咲いた。桜は、古来から私たちの心情の深いところを揺さぶってきた。9年前の桜は東日本大震災と重なり、今年の桜は、新型コロナウィルスの最中に開花した。誰もが、今年の桜は、時代の深い暗示なのではないかと感づいているのではないか。それはなんだろうか。(3月19日、横浜山下公園にて)

|第134回 2020.3.25|

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