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私の、「福祉ジャーナリスト」誕生の記

コラム町永 俊雄

▲メディアの現役の時には、福祉をはじめとしての関係者とのネットワークが最大の財産であり、今なおなんとか取り組んでいられるのもそうした皆さんとのつながりがあってこそだ。(放送画像は、上段と下段右が2008年のNHKスペシャル・セーフティネット・クライシス、下段左は2011年の福祉ネットワーク、東日本大震災時の生放送)

私の今の肩書は、一応「福祉ジャーナリスト」というものである。
どこかエラそうに聞こえてしまう以上に気恥ずかしい。だから、名刺を出しながら「福祉ジャーナリストのマチナガです」と思いきり反り返って自分から名のることは、まずない。
だいたい、私からこの肩書にしたわけではなく、他の何か適当な識別法として、「生活評論家」というのも、どこか家計簿の上手なつけ方を語るみたいだし、ホントは「くらしのつぶやき人」とでも言った感じが良いのだが、なんだかわからない以上に、怪しげな雰囲気が先に立ちそうである。

この肩書になったのは、NHKを退職してフリーになってからで、そのNHKの番組に出演するときに、業界用語でいう「下ダブリ」の字幕の表記が問題になった。
問題になったと言っても、「やべっ、あいつが出てるぜ」という騒ぎになったわけではなく、要するに、フリーになると肩書きがないわけだ。

だから私の顔が映し出された時に「下ダブリ」を「元キャスター」としたわけだが、そうすると今度は、私の後任の正真正銘の山田キャスターが隣にいて、ここでも「キャスター」とダブる訳だから、まるで芸能界で「元夫人」が「現夫人」に対して、「ひどいわ、山田夫人たら、私の夫を奪ったのね」といったドロドロ系の昼ドラマのようではないか、といった人がいたかどうかは知らないが、どうも同じ番組にふたつの「キャスター」の肩書が出入りするのは混乱しないか、といったことらしかった。
その時、編集の決断はできないがこういう決断だけは果敢なプロデューサーがいて、「よしっ、マチナガさんは『福祉ジャーナリスト』にしよう」ということになったのが真実である。大した真実ではない。

そもそも、私が今のように福祉をテーマにして活動しているのは、2004年からEテレの「福祉ネットワーク」(現ハートネットTV)という番組を担当してからだ。
それまでの担当は主に情報系の生放送が多く、今も飛ぶ鳥も避けて通るほどブッ飛んでいるあの「あさイチ」の時間帯も、別タイトルだったがずっと昔には担当していた。

もちろんかの有働アナほどの有り余る才能もツケマツゲもない私は、脇に汗ジミを作ろうとひた隠しにし、しんねりむっつりと教室の片隅のマチナガくんと言った感じで 世間のあれこれをブツブツつぶやいていた、と思う。
当然、その頃から福祉的なテーマも放送していたから、全く福祉と無縁ではなかったのだが、そうは言っても福祉専門チャンネルとしての「福祉ネットワーク」を担当することになろうとは全く思っていなかった。

担当が決まってから番組プロデューサーがいそいそと手土産もなしに(会社内なので当たり前なのだが)挨拶にやってきた。
「あのさあ、なんで私が『福祉』なの。不真面目と冗談がネクタイ締めていると言われている私がなぜなのだ」と、私。
「いや、だからこそお願いしたいのです。湘南でブイブイ、原宿でホイホイの(してないしてない)マチナガさんだからこそ『福祉』なのです」と、プロデューサー。

「あんたねえ、私にどんなイメージ持ってるの」
「仕事もできずコネもなく、上司認めず部下なつかない(あたってるなあ)。いや、それは冗談としても(本気だろ)、要するに福祉の枠を壊して欲しいのです。福祉っていつも正義の言葉で語られるじゃないですか。そんな福祉って現代の多くの人のつらさや困難に届いているのでしょうか。上からでなく、地べたから福祉を語ってもらいたいのです。生活者の目線というと抽象的ですが、マチナガさんのいい加減な視点から(なるほど)、福祉を揺り動かして欲しいのです」

とまあ、そんなこんなでその「福祉ネットワーク」の担当は8年続いた。
それまでの打ち合わせといえば、ディレクターが徹夜して書き上げた構成台本を基にしていたのだが、私はその台本を裏返し「まず、あなたのこの番組への思いを語ってくれませんか」と問いかけた。
当初は戸惑っていたスタッフもやがて打ち合わせの場は、段取りよりもディスカッションの場に変貌していった。私があえて反対の立場を述べ、「私を説得してみてください」と言ったりした。ぶつかり合い膠着し白熱し、そしてまた、笑いに包まれた。

「福祉をやりたいのです」と番組に結集するスタッフは若くて優秀だった。あえていえばあの福祉の時間枠のスタッフはNHK全体からしても、最も優れた人材が集まっていたと思う。いや、あの場がきっと優れたメディア人を育てていたのだろう。

東日本大震災の時、他の番組が全て震災報道に切り替わっても、「福祉ネットワーク」だけは番組として連日生放送で被災地の人々の声を伝え続けた。
現地に飛んだディレクターが被災地にたどり着けない。連絡がつかない。放送センターのスタッフルームでは電力規制でほとんど暗闇の中、スタッフが電話と映像にへばりついている。
誰もが何日も帰宅もしていないし、寝てもいない。がらがらのコンビニの棚からなんとかかき集めた食料が一角に積み上げられている。
「大丈夫か。寝てないじゃないか」
通り過ぎるディレクターに声をかけた。彼は血走った目をまたたかせて、ぶっきらぼうにこう言った。
「被災地の人のことを思ったらこんなこと、どってことないっす」
一瞬、私はその場に佇立してこみ上げるものを押さえ込んだ。そうだよな。そうなんだ。

あの日、都心は帰宅できない人々で溢れかえった。大群衆はやがて途方もない震災被害を知ることになった。
そして、人々は歩み始めた。黙々と整然と自分たちの帰る道をあゆみ出す。命と家族と地域を根こそぎ失った東北の人々のことを思いながら、ひたすら歩み続けた。沿道の人々は飲み水や軽食を差し出した。世を徹し歩き続ける人々は、あの時「帰宅困難者」という匿名の大群衆から、一人ひとりが「他者の困難を自分のこととする」個の存在となって歩き続けたのだと思う。圧倒される思いの中、私達はどこに向かって歩き続けたのだろうか。あの日あの時、私達は確かに「共に生きる私達の社会」へ向かって歩き続けていた。私はそう思う。

今、か細くも「福祉ジャーナリスト」として活動する私は、絶えずあの日の暗闇のスタッフルームと、歩きつづける大群衆の姿の中の自分に立ち戻る。そうすることでしか、私の「福祉」を語ることは出来ない気がする。

|第145回 2020.7.1|

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