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「認知症」という不安、その希望

コラム町永 俊雄

▲3年に一度の横浜トリエンナーレ。下段、横浜美術館全体が紗の布で覆われた。クロアチアのアーティスト、イヴァナ・フランケの「予期せぬ共鳴」。上段、日常の光景も歪み、普段と違う景色となる。どちらが現実の世界なのか。作家のコメントに「世界はかたちを保つのがやっと。しっかりしたものであるはずの建物があやふやになる。わたしたちは何を知っているのだろう?」とある。

7月24日は芥川龍之介の河童忌、近代文壇の光芒となった稀代の才能がみずからの命を絶った日だ。「ぼんやりとした不安」という謎めいた言葉を遺して。
それは、近代化に疾走する明治から大正の時代のきしみとして、人々の鋭敏な感覚の底深くに響いた。

今、このコロナの時代を透かすようにして見れば、その「ぼんやりとした不安」が時代の亡霊のようにしてひっそりと、この社会の行く手にさまよっている。ハムレットの父王のように・・

今また、新型コロナウィルスの感染再拡大の事態である。そして繰り返されるのが不器用な施策対応であり、錯綜する情報の混乱だ。
そこには自分の暮らしや人生が自分の力の及ばないところで突然変えられ、何が起きていて何が起こるのか十分な説明もなく、自分が決める余地なく管理されていく日常の連続、それらがじわじわと取り囲み、そのまま時代の将来予測を閉ざしていく。

今誰もの胸に立ち込める「ぼんやりとした不安」は、現実の対応対策、施策の混乱をも超えて、行く手を見透かすその向こうにじっとわだかまる何かの暗示のようだ。
それはなんだろう。

思えば、私たちはこの新型コロナウィルスとの自粛の日々の中で、誰もが自己と向き合い、自己に問いかけ対話する長い時間を過ごした。
それはまるで壁に向かって座り続ける行者のようにして、自己とこの社会を凝視し続けた。

その経験は人々の意識のどこかをジワリと変質させ、誰もがこの世界を構成する当事者であることの市民的認識を生み、そして新たな自意識の萌芽につながったのかもしれない。(ウィルスの事態の最中の検察官延長法案への抗議や、海の向こうでのブラック・ライブズ・マターに対し声あげる人々の反応の拡大は、コロナの時代の総当事者性の覚醒と無関係ではないはずだ)

見えないウィルスに取り囲まれ自分を見続けるしかなかった長い時間に、現実の向こうに立ち込める「ぼんやりとした不安」が、誰もに見えてしまったのではないだろうか。

そもそも私たちが特段の不安も意識せずに日常の暮らしを継続できるのは、今日が昨日と同じように現れて、明日もまた確実に存在していると思えるからである。
が、コロナ禍の経験は、その存在の安定を揺さぶった。

発達心理学者のエリク・エリクソンは、時を超えて自己が同一であり連続してあるという主観的な感覚を、アイデンティティ(自我同一性)という概念で提唱したことで知られている。
私たちの存在の安定は、エリクソンの発達理論によれば、幼児期に形成される「基本的信頼」という心的状況から育っていく。
例えば、幼児の視界から母親が見えなくなっても、それは自分は見捨てられたのではなく、母親の存在と関係はいつも通り変わることがないと思えること、それが「基本的信頼」で、その信頼がその後の発達での、自己存在の安心の基礎となるとしている。

それを敷衍すれば、私たちの存在の安定というものは、昨日と同じように今日が継続し、そして明日以降も同じように流れる時間の中に自分は存在している、と思えることである。
コロナの時代はその基本的信頼を突き崩した。
ウィルスが断ち切ったのは、地域社会の人々のつながりだけではなく、一人ひとりの中に流れる安定した時間の流れでもあったのだ。世界は壊れていく。

この時代に生きる私たちの触覚に感じる「ぼんやりとした不安」は、実は私たちとそれを取り巻く世界の存在の不安なのではないか。
再びの感染拡大の中で、あいも変わらず、医療体制の不備なままにGo ToトラベルでV字回復、といった空疎な言葉の無効性を誰もが見て破り、すでにこの社会は、これまでとは全く違った景色の中にあることに気づいてしまっている。
実はこの世界を包み込む「ぼんやりとした不安」は、ずっと以前からこの社会の行く手にたたずんでいたことをも、ウィルスの到来は、否応なく私たちに気づかせてしまった。

その存在の不安を先行して経験してきた人々がいる。
認知症の人々だ。
認知症の人の不安は、存在の不安でもある。自分がきのうの自分とはちがうとされてしまうこと、それまでのいつもと同じ世界が、一転して、母親に見捨てられた自分を実感させる異界となり、しかもこれからどうなっていくのかわからない感覚。認知症の誰もが、その深部に言語化できない存在の不安を抱えている。
自分は自分でありつづけるのだろうか。今日の自分は、明日もまた自分でいられるのか。

認知症の人は、自分の中の存在の不安に向き合うしかなかった。家族も医療もケアも、その回答は持ち合わせていなかった。人の存在不安への回答も処方箋も、そもそもあり得なかった。だから、認知症の人は自分で自分を取り戻す旅路をたどるしかない。
改めて彼ら彼女の旅路を遡行してみれば、認知症当事者は、その当初まず、その不安を語ったのだ。症状のつらさや暮らしの支障を語る言葉に託して、そこで語ったのは自身の喪失への底知れない不安を語ろうとしていた。
「私は誰になっていくのか」と。

人間は常に自分のうちに湧き起こる不安とともにある。老いや死、喪失。
この世界からはこれからも不安がなくなることはない。不安を見えないことにしてなんとか自分をごまかし続けて、かえって、自分の不安を極限まで膨らませてきた。
だが、認知症の人の、不安とともに歩んだ旅路は「ぼんやりとした不安」にしっかりとした輪郭を与える。
不安を見つめよ。この存在の不安から目をそらしてはならない。この不安の正体をしっかりと見続けるしかない。認知症の人はそこから歩み出している。

5000人の認知症の人を診てきたというのぞみメモリークリニックの木之下徹医師は、その著作で、認知症の人の存在の不安に触れ、こう記している。

「私たちにとって重要なのは、幸福とか不幸とかを決める前に、そもそも認知症の体験とはどういうものかを知ることです。表面的な症状の話ではなくて、もっと根深い(自分が自分でなくなるのではないか、という)存在不安の話です。
(中略)
どういう状態になってもその人にはその人なりの自分がいるという確信が私にはあります。そこに理由はありません。これまで認知症の人々と出会ってきた体験からくる私の信念です」

木之下医師は、「認知症の体験とは、表面的な症状の話ではない」と、いきなり自らの医療知見を手放した上で、それは「根深い存在不安」の話なのだと、ここから認知症にまとわりつく既成概念をそぎ落とし振い落とし、そうしてたどり着いたのが、「どういう状態になってもその人にはその人なりの自分がいるという確信」であるとする。

これはすでに普遍的な「人間」の本質であり、この一行が彼の著作の確信である以上に「核心」であり、そしてこの世界の重心の言葉であろう。

思えば、この世界で確信を持って言えることはあるのだろうか。
ウィルスの対策、収束のための戦略、感染予防、明日の株価、恋人との愛情生活、世界の終わり、なにひとつ確信を持って語れないじゃないか。

「どういう状態になってもその人にはその人なりの自分がいるという確信」
これは「認知症と共によく生きる」ことの必須条件だ。確信を持ってそう思う。

コロナの時代に立ち込める濃霧のような「ぼんやりとした不安」の向こうに、誰もが「その人なりの自分がいるという確信」を持つとき、修辞の奥行きを探れば、それはきっと「認知症を希望とする社会」なのだと、私はそう思う。

|第147回 2020.7.22|

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