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「認知症」を読む。医師 木之下徹の一冊

コラム町永 俊雄

▲写真中央の木之下徹医師のこの本は、一般向けの読みやすい内容と装丁になっているが、実は医療は何をなし得るのか、人はどう生きるのかという水域までを視野に、ヒリリとしたラジカルな内容の本でもある。(8月20日出版予定)

診察室では白衣でなく、一年中着慣れた(ヨレヨレとは言わない)Tシャツ、その大柄な身体を申し訳なさそうに幾分かがめるようにして認知症の人やその家族と接するのが、木之下徹医師のスタイルだ。
以前ふと気付いたのだが、木之下医師は意外や、かわいい目の持ち主なのだな。
失礼ながら、どこか森の小動物を思わせるような黒目がちで、やさしげな光を灯している瞳なのである。たぶん、彼の人格がその瞳に投影している。

木之下徹医師は、5000人の認知症の人を診たという。現在は、三鷹で認知症の外来クリニックの院長をしているが、それ以前には、全国の誰も手がけていなかった認知症の在宅診療を15年ほどつづけ、その間1000人ほどの自宅に通った経験を持ち、そこでの認知症の人との存在論的な濃密な体験が彼の認知症医療の基盤だ。
2014年に現在のクリニックを開設、そこではこれまでに3500人以上の認知症の人を診たことになる。

が、多くの認知症の人を診たからと言って、それで認知症のことがわかるというものではないと彼自身が語っている。その経験がもたらした彼自身の思考、模索、失敗、怒りというものが彼の認知症に向き合うスタイルになり、それは認知症医療を変えたというよりむしろ、医療者である自分自身に一番の検証と変革を課してきたのである。

その木之下医師が、このほど新書を著した。
彼のこれまでの経験や思考の集大成と言ってもいいが、私はむしろ、著者の、いまこの時に書かずにいられるか、と言った内噴するマグマのような書だと思っている。

そのタイトルが「認知症の人が『さっきも言ったでしょ』と言われると怒る理由」。
誰もの興味を引くフレーズであるが、これは世間の認知症の啓発的解説の書とは一線を画す。この軽やかなタイトルがすでに認知症当事者の側に立つ医療のあり方の宣言であり、その向こうには、実はずっしりとした重量の(著者のことではない)現時点での認知症の最新知見やら情報が詰まっている。
だから、本書は認知症の医師や専門職、研究者にとっても読み応えのある質量を持つ。その一方で、新書の性格からしても一般の人々、とりわけ認知症の人や家族を疎外するものではない。

読みやすいのだ。そこにはあのやさしげなまなざしで語りかけるような文体のせいもあるし、構成のしかけもすぐれている。
それは、どの章も著者の診察室のエピソードから始まっているからだ。医療者である著者と、彼の診察室を訪れる認知症の人や家族との「対話」から始まる「人間の物語」として立ち上げている。

その対話の中での著者は、認知症の人にやり込められ困惑したり、あるいは、自分のミスに赤面したり、どうしたらいいものか考え込んだりして、診察室の椅子で反り返っているようなどこぞのセンセに比べるといささか頼りないふるまいを見せる。
ここにいるのは、匿名の、診断と治療の審判をくだす全能の「医療者」ではなく、認知症の人と等置されたひとりのキノシタという「人間」として登場している。

だから、そんな率直で軽快な文体に、思わずクスリとしたり、オイオイ、どうするんだとツッコミを入れながら読み進んでいるうちに、いつの間にか今の認知症医療をめぐる迷宮の世界に歩みこむ仕組みとなっている。
だから、読みやすい。そしてその先にある「認知症」は、たぶん、学術論文のレベルをいささかもゆるがせにしない記述である。例えば、認知症診断の項目でのMCIと認知症の診断の概念であるとか、抗認知症薬剤の効果に関わる評価式など、明快でスリリングな展開に引き込まれつつ、おそらくこれほどの専門的知見を、これほどわかりやすく精緻な説明を受けた認知症の人や関係者はいないのではないだろうか。

ここにあるのは、認知症の正しい知識を持つことが認知症の人や家族の「生きる力」となるはずだという著者の獲得した信念がある。認知症の人に対してただ、「大丈夫です」というだけでは「生きる力」につながるはずがなく、同様に社会の側でも、「認知症と共に生きる」だけを浮遊させるのではなく、その理念を成立させるための認知症医療の側からのエビデンスを提供することの責務があるとする。それが、たぶん、彼がこの書を世に送り出した役割の一つだ。
著者は前書きにこう記している。

「私は、認知症の本当の姿を見ることは、認知症の本人、周りの人たちが前向きに生きる上で大切なことだと思っています。
あなたも近い将来認知症になるかもしれません。そうなったときに、諦めずに自分の人生の主体者として生き抜いていただくためのヒントを書きました。認知症になってもあなたの人生は続くのです」

ここにあるのは「人間」への限りない信託である。
これは「認知症」を突き抜けた「人間」の復権の書なのである。深読みをすれば、ここに著者が認知症の人を「自分の人生の主体者」として位置付ける時、同時にそれは、これまでの認知症の医療が、医療の側の他覚的な捉え方でその主体を奪ってきたことの告発がある。

こうした「人間原理」の捉え方は、著者の当事者活動という出自が反映されている。2014年に始まった「認知症当事者研究勉強会(当時呼称)」を、著者自身が主宰し牽引してきたことが大きい。認知症の当事者の視点で見ると、それまでの「認知症」の光景は全く違って見えるという、当時の熱気と予感がおそらく、今も著者の中にも息づいているのだろうと思う。

本書は、認知症医療を、徹底して認知症当事者の視点から見つめ直すという困難に挑戦している。
当たり前ながら、認知症医療者と認知症の当事者とは、その立場は非対称性を持つ。認知症の人は医療者に、診断であれ治療であれ、正しくて的確な答えを期待する。が、医療者の側は誠実であろうとすればするほど、明確なひとつの答えに収束することをためらう。

本書の章ごとに置かれている診察風景のエピソードは、実はそうした厳しさに満ちた認知症医療の現実の断章である。だから、本書でも著者は繰り返し、「答えは見出せないのです」「考え込んでしまいます」あるいは「かもしれません」といった言葉を連ねる。

本書の終盤近く、ある団地の母娘のエピソードが語られる。著者の在宅診療での経験である。客観的には、涙と叫びが飛び交う凄惨とも言える在宅介護の現場だ。そこに「小心で臆病」な医師である著者が振り回され、しかしあくまでも粘り強く向き合い、ついには母娘のそれぞれの「人間」の復権に泣いてしまう。そんな深く心打つ風景が展開する。

これが、著者の「認知症医療」である。与える医療ではなく、当事者の主体としての生きる力を互いに見出す医療である。今よく言われる「シェアード・ディシジョン・メイキング(協働的意思決定)」を図式ではなく、娘の殺意や医師の迷走や困惑をくぐらせて、ここではより当事者の視点の物語の中に、彼の認知症医療を確かに成立させている。

「認知症とは何か」、読者はこの書を読みながら、木之下医師のやさしげな、あるいは少し悲しげなまなざしの中に、認知症であるかどうかを超え、自分が自分の人生の主体者であることに気づくようになる。そのことに著者は祈るような思いを込めている。
この書は、峻険な山の頂きに埋め込まれた三角点をめざすようにして、ただ一行の言葉にたどり着く。読者はその一行を味わうために、この書を読み進むことになる。

「人の本質は、人どうしの関わり合いの中にある」

かつて勉強会で、木之下徹医師は、「認知症医療は治療も予防も維持もできない。認知症医療は敗北したのか」と自らを問うた。
本書で、そのことを改めて私たちとこの社会に問うたのではないだろうか。
このささやかながらずっしりとした志と祈りに満ちた新書を、このコロナの時代に手にすることができたことを祝福したい。

※付記   この書の最後に2008年の「お福の会宣言」が掲載されている。
持続する一人の医師である「人間」の志として、必読。

|第148回 2020.8.5|