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NHKハートフォーラム「コロナの時代に認知症を考える」 〜つながるためのオンラインはどうあればいいのか〜

コラム町永 俊雄

▲アクリル板でディスタンスを保ちながらのオンラインフォーラム。左から町永、丹野智文、永田久美子、繁田雅弘の各氏。オンラインでの話し合いは、誰かの言説を聴くのではなく、互いの思いをどこまでも行き来させる広がりを見せた。答えではなく気づきに満ちた新しいフォーラムが始まる。

8月30日にNHKとNHK厚生文化事業団の主催でオンラインフォーラムを開いた。タイトルは「コロナの時代に認知症を考える」である。

実はこのNHK厚生文化事業団は今年創立60周年。
社会福祉法人としてこの社会の福祉事業を支え育ててきた事業団が、その記念事業として7回連続というこれまでの福祉的発想からすれば破天荒のフォーラムを立ち上げた。
その第一弾が、このオンラインフォーラムなのである。

そう、その意味ではオンラインであることが大きい。スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」の冒頭、謎の物体モノリスに触れた猿人たちが、手にした骨を高々と振り上げて進化の始まりとしての道具を手にしたように、私たちの暮らしはオンラインを手にしたのである。

ONLINE とは、もともとコンピューターと端末が直結されている状態をいう。それが、ビジネスの場を離れて、私たちの地域活動のツールとして使われる際には、データ処理の効率性より何よりも、その「つながる」機能を拡大させ、しっかりとわが手に収めた。
当初は、新型コロナウィルスの事態に、途切れたつながりの代替機能として登場したオンラインだったが、それはたちまちのようにして、仮想機能を超えた私たちの暮らしの動脈となった。
それはまるで、世界の荒涼に人々が互いの手と手をしっかりと果てしなくつなぎ合わせていく人間の鎖の形象が、オンラインなのである。ビジネスのコンピューター用語を、私たちは私たちの想いで人間の声に変換してきた。

さて、「コロナの時代に認知症を考える」である。
認知症を考えるといっても、認知症の課題性を考えるということではない。
認知症のまなざしを借りて、この社会を見つめ直そうということである。認知症もこの新型コロナウィルスも、ともに「誰もがなりうる」ということでは同じで、それは誰もが、この事態と認知症の当事者であるということだ。「自分ごと」の共生社会を語らなければ、認知症とともに生きる社会も、ウイズ・コロナの社会もやってこない。
そんな思いの四人がまず東京のスタジオに集まった。

仙台から丹野智文氏、ケアの立場から永田久美子氏、シゲタハウスでおなじみの医師、繁田雅弘氏、そして私である。
照明を浴びて壇上に歩み出すわけでもなく、会場の聴衆がいるわけでもない。それぞれが質素な事務チェアに座り、それでも何か不思議なつながりを感じ取りながらいつの間にか語り始めていた。途切れた日常があたりまえの日常につながっていく。

各地をつないでのリモートの語り合いだ。
名古屋の地域包括支援センターの気鋭のソーシャルワーカー鬼頭史樹氏は、このオンラインをとても意識的に捉えている。いわばオンラインに使われるのではなく、どう使うかの方法論を確立しようとborderless-with dementia-という認知症当事者たちとの新しい「場」の創造を模索している。
彼はこんなふうに述べる。
これまでは色々な業務や事業が積み重なって現場は身動きができなくなっていたところもある。それがこのコロナの影響で多くの事業が中止になった。それはある意味で「本当に必要な事業」と「そうでない事業」が見えてきた。だからいまはめちゃめちゃチャンスなのだ、と彼はいう。

一方、金沢で認知症カフェを開いている「若年性認知症の人と家族と寄り添いつむぐ会」の副代表、道岸奈緒美さんは、いち早くオンラインを活用していた。
認知症カフェに一人では来ることが難しい人のために、コロナの事態の以前からオンラインを始めていた。しかし、道岸さんの感性には常にオンラインの先の当事者のことがあったらしい。どうしてもモニター越しでは仲間との時を楽しめない人がいることにどうすれば良いかと、感染対策を取りながら小規模のリアルなカフェとの併用にも踏み切っている。

道岸さんは、続けること、「つながり続けること」を一番に大切にしているという。
それは、オンラインの機能ではなく、オンラインに想いがつながり続けていることこそが地域の再生でもあるという信念だろう。
道岸さんはリモートでの話し合いの最後に、「これは私の個人の体験なので、少しずれるのかもしれませんが」と前置きして、ご自身の祖母の物語を紹介してくれた。

祖母は今100歳、80歳を過ぎた頃から認知症症状が現れたが(道岸さんの)両親と仲良く暮らしていた。7年前の脳出血で施設で過ごすようになったが、このコロナの事態で面会禁止となった。そこで道岸さんはオンラインで家族の声と映像を送ることにした。
何が起きたのか。ここからは道岸さんの報告に語ってもらおう。

「日頃は話しかけても焦点も合わず声も出さない祖母ですが、祖母に尽くしている母(嫁)の声がした時は、頭を枕から上げ、一生懸命に母の声がする方を向こうとしていました。
また言葉にはなりませんが声も出し、笑顔も出ました。祖母の笑顔は脳出血で倒れた以降、私は初めて見たように思います。この笑顔は私だけではなく、父も感動していました!」

この話をした後に道岸さんはこう付け加えた。
「この体験が、何かとても大切なヒントになったように思います」

このエピソードは、オンラインスタジオのパネリスト誰もの共感を呼んだ。
繁田雅弘さんは、「オンラインに寝たきりの人も参加してもらってはどうか」と語った。寝たきりの人、認知症が進んで言葉や表情が乏しくなった人が、オンラインの向こうにつながっている。そのことで、つながりはどれほど豊かに変質することだろう。
オンラインは「語ること」を前提にするのではない。「いること」、暮らすこと、生きていることをあたりまえの前提として初めて「つながっている」ことになる。

新潟市のボランティア団体のmarugo-to(まるごーと)は、去年の「認知症とともに生きるまち大賞」の受賞団体だ。農業用ハウスを小さな共生社会として開放し、誰が来てもいい、何をしてもいいと言う取り組みで、認知症の人だけではなく障害者、ひきこもりの若者、学生たちが自然に集まってきた。
代表の岩崎典子さんとの話では、ここではあくまでもリアルな集いにこだわる、と言うより、認知症の当事者たちの強い願いに押されるようにしての慎重な再開だったのだそうだ。

ここでのリモートの話し合いでは思わぬ出来事が起きて、それがこのオンラインの本質を誰もが実感することになった。
岩崎さんがこのmarugo-to(まるごーと)の常連の認知症のメンバー二人を紹介し、その満面の笑顔のお二人に話を聞こうとしたときに、wi-fiの通信状態のせいだろうか、音声が途切れ途切れになった。向こうのお二人が生き生きと話している様子は映像でわかる。しかしその話は途切れてしまう。

スタジオのみんなが身を乗り出すようにして、懸命に耳を傾ける。
何を話そうとしているのだろう。あの笑顔は、つながりが途絶えた時には消えていたのだろうか。
あの時、誰もが聴いていた。その人を聴いていた。声は聞こえなくても、聴こうとする思いと話そうとする想いがオンラインで確かにつながっていた。
これが仮に通常放送であれば、放送事故である。誰かが舌打ちをすることもあるだろう。しかし、誰もがあの時つながっていたのだ。思いは途切れない。そんな時間が過ぎた。
これがオンラインなのだ。つながりは途切れない。どんな時でも、つながり途絶えてもつながることはできる。

その後、通信は改善して、元気な声が再びあふれたことは言うまでもない。最後には自作の歌も披露されて、私たちは、認知症の人たちから大いに励まされてリモートは終わった。

新型コロナウィルスの事態は、テレワークやオンラインの導入によって、この社会をすっかり変えていくと言われている。暮らし方、働き方、会議のあり方、脱対面での買い物や打ち合わせに切り替わるとされている。そうだろう。私たちの会議や打ち合わせもほとんどはオンラインである。
社会は変わっていく。が、変化というのは、「変わらないものとは何か」ということを厳密に洗い出していくことでもある。それはなんだろう。誰にも答えはあるはずだ。

私たちのオンラインフォーラムでは、それは「人間」という存在なのだとした。
オンラインは限りなく水平に人々をつなげていく。それは「認知症とともに生きる社会」にとっての大きな可能性だ。つなげていく中で、それは「認知症」を超えて「ともに生きる社会」へと進化していくといい。

早くからオンラインで取り組んできた金沢の道岸奈緒美さんは、オンラインの認知症カフェで、集えない人のことをいつも考え続けているという。
「人」のことを。

|第151回 2020.9.4|