認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
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NHK Eテレ「認知症とともに生きるまちを行く」を視て

コラム町永 俊雄

▲Eテレ「ハートネットTV」で放送された、左は京都西院デイサービスの「シッテプロジェクト」。右上は盛岡市滝沢の「スローショッピング」。ともにNHK厚生文化事業団の「認知症とともに生きるまち大賞」の受賞団体だ。

NHK Eテレ「ハートネットTV」で「認知症とともに生きるまちを行く」の二本を視聴した。
タイトルにあるように、全体のテーマは「認知症とともに生きる」だろう。
この言葉はいつも理念的な文脈で語られるが、では実際にはどのように機能しているのだろう。

この番組はたくさんの認知症の人の声で綴られている。
カメラに正対してのインタビューではなく、ほとんどが何かをしたりしながら、なにげなく語り出したりつぶやいた声が丁寧に拾われている。
なぜか誰もが認知症のことはほとんど語らない。しかし、ここでは誰よりも雄弁に「認知症のこと」が語られている。そのことに気づくのは番組を見終わったあとである。

全体は、認知症の人と仲間たちの日常の物語を追いながら、そこから立ち上がる何かがあり、それは声高に語られない分、深いところからのこの社会の再定義といったものにつながるようだ。穏やかな物語に潜むしたたかな手強さに後になって時間を置いて気づいていく。そんなあじわいの番組である。

この番組では、NHK厚生文化事業団が毎年実施している「認知症とともに生きるまち大賞」の受賞団体を取りあげながら、活動成果の紹介にとどまらず、このコロナの時代に必要な社会組成といった原点への視点回帰と言っていい。

2019年、去年表彰された京都の西院デイサービスでは、通ってくる認知症の人や高齢者とひのきのカッティングボード(まな板)や木の皿の製作に取り組んでいる。それぞれが京都北山産の銘木のひのきの分厚い原材をヤスリで磨き上げる作業に取り組む。
木の香の中、誰もが懸命にヤスリがけだ。100回を数えながら磨き、出来にこだわる人がいる。同時に担当者からも厳しくチェックが入る。カッティングボードである以上、完全に平面でないと「キュウリを切っても繋がってしまうでしょ」とやさしく説明しながらも、中央部がわずかに凹んでいることにダメ出しなのである。また磨き直しだ。
ダメ出しできる関係性が、ここでは「認知症とともに生きる」ことなのだ。

出来上がった製品は市内のセレクトショップで、品によっては一万以上の値で販売されている。見事な出来栄えのブランド品なのである。
店の人の声。「ここでは、あえて認知症の人の製品とは謳っていない。認知症の人の製品だから買うのではなく、製品がいいから買って欲しいのです」
店員の「ともに生きる」声に聞こえる。

以前、お年寄りたちが連れ立ってこのショップを訪ね、自分たちの製品と対面したことがある。デイサービスの所長は、それがお年寄りの意識が変わった瞬間だという。それまではどこかレクレーションの延長みたいな気持ちもあったのが、これは本気でやらんと、と誰もが責任と誇りを感じたのだろうと語る。
それはまた認知症の人たちお年寄りが、「認知症とともに生きる」自分を獲得した瞬間だった。
「認知症とともに生きる」はともすれば、特定の認知症の人の発信であり、その周囲の人の覚醒した問題意識として語られる。そうではない。私たちが、認知症の隣人の「認知症とともに生きる」発信に耳を傾けていないだけだ。

デイサービスでの働きには地元商店街の商品券で報酬が出る。その後のエピソードの映像は、きっと誰もの心を解きほぐす。日常が絶品だ。
みんなで商店街に繰り出して、お気に入りの衣料品を選び、しっかりと「負けてくれへん」と交渉し、商品券で払い、おおきに!の声に送られて商店街の誰もがともに生きる仲間だ。

この京都のデイサービスの取り組みは、支援の形態を突き抜けて、「働く」ということを問いかけている。ヒノキの木材にヤスリをかけ続けることは、自分が自分であることへのリカバリーなのだ。ひとヤスリごとに、「認知症の人」から脱け出した自分に認証を与え、次のひとヤスリで他者の承認を削り出す。その証は、ショップに並ぶ自分の製品だ。そのようにして「働く」は成立している。
私たちは、労働と財の交換のみを「働く」として、半ば自嘲しつつ自分と共同体の活力としての「働く」喜びや意味合いを振り落としてきた。
改めて「働く」ことの原型を、彼女彼らの姿に見いだすことになる。

2018年受賞の町田市の「竹林プロジェクト」は、荒れ果てた竹林の再生に取り組んでいる。竹林の竹を伐採し陽が当たるようにする。作業にあたる認知症の人は、ヘルメットをかぶり、のこぎりを手にして余分な竹を切り倒す。指には絆創膏がいくつも巻かれ、小傷が絶えない。ここでの「働く」は、身体を張っての地域開拓であり、地域創造である。

切り開いた竹林の中の広場には子供が集まり、竹炭から消臭用の小物として販売化する道につながり、その小物作りには認知症の人の家族が集まってきた。
この取り組みを進めているHATARAKUネットワーク代表の松本礼子さんはこうした広がりについてこう語る。
「一番嬉しいことは、全体がどこもよかったっていうことよ。自分たちだけで完結してニコニコしているんじゃなく、誰かがとか、何かが良かったということでなくてね。あとから考えるのも変だけど、そういうことになっているの」

松本礼子さんは長くこうした活動を作り継続してきた地域のキーパーソンだが、その問題意識や計画性は厳密にあるはずなのだが、いつもそれを前面に出すことなく、ずっと後退させている。
映像の彼女の言葉はやわらかく包み込むようにして、あとから考えるとね、と言い添える言葉に活動への自負もにじむ。誰かがやるのではなく全体の協働が自律的な活動に育っていく。まるで地域が一つの生命ある有機体のようにして動いていく。そうした誰もの意識を、松本さんはどのようにして生み出すのだろう。

それは指導者でもなく、パートナーでもなく、仲間と集い、汗を流す同じ時間を共有するという彼女のふるまいこそ、「認知症とともに生きる」なのだろう。いや、すでにここでは認知症であるかどうかを超えて、確かな「ともに生きる」という相互の関係性が根付いている。

2019年受賞の岩手県盛岡市滝沢のスローショッピングは、活動を開始して以降のイノベーションに注目したい。これこそが「認知症バリアフリー社会」構築の歩みだろう。

認知症の人が、スーパーのレジでせき立てられるのが嫌で買い物をしなくなった。ならば、スローレジのラインを設定しよう。小さな変化が次々と変化を呼び起こし、波紋のようにして地域に広がった。
そこには、認知症当事者の声があった。
ここでは買い物を手伝うボランティアのパートナーがいて、認知症サポーター講座も受けて大張り切りである。でもそのことが、認知症当事者からの「もう少し放っておいて」「買い物リストを取り上げられた」と言ったアンケートに記された。

よくある親切、善意というものが認知症の人のできることまで奪ってしまったのである。
見守りが監視になってしまったのか、すぐに話し合いが持たれ、買い物にどう付き合うかが確認された。市民の側が「ともに生きる」ことを認知症の人から学んだのである。

さらなる変化も現れた。今度は買い物もさることながら、ここでの会話を楽しむためにやってくる人が増えた。一人暮らしの高齢者は、在宅では一日何も話さず過ごす。
ここに会話を楽しみに来て、ついでに買い物をしていく。何よりここには昔馴染みの人間関係があり、久しぶりの会話で地域のつながりが修復され、当初の目論見は嬉しく外れて、新たな地域社会の力となった。

ひとつの取り組みをそこで終わらせない。そこから次の変化につなげていく。その道筋は、認知症当事者の声が示す。
実施者の側で活動成果を喜ぶのではなく、そこの認知症の人が喜ばなければ成果ではない。そしてその喜びとは何か。
それは、単に買い物が便利になったことにとどまらない。その人がその人であり続ける暮らしとなっているのか。スーパーに出かけ、自分で品を選び、迷い、献立を考え、レジで自分の財布からお金を出して払う、その一連の動きが、その人の暮らしの喜び、レジリエンスになっているか。
一人きりの食卓や、冬の降雪時期の移動手段など、認知症の人から聴き取ることが、本当の「認知症バリアフリー社会」につながっていく。
誰かの用意した「バリアフリー社会」に収容することでは決してない。

金沢での認知症カフェの取り組みは、前回のコラムで取り上げたので端的にいうならば、ここでは「認知症の人と家族と寄り添いつむぐ会」の道岸奈緒美さんの思いや悩みや迷いといったものが、実は取り組みの駆動力になっているようだ。
道岸さんは、あらかじめの正解として活動を進めているのではない。これでいいのだろうか、どうしようか、いつもそんな思いを込めながら取り組む。

主宰する本人が悩んでいるということは、活動にとっては不安定要素となるかもしれない。しかし、悩んでいることはそのまま認知症の人々の声を聞き取る回路が広々としているということだ。

道岸さんは、悩みながらも自分の思いの明確なイメージを、認知症の人や家族、スタッフと共有し具体的に育てていく道を選んでいる。
正しく悩むことは正しく聴くことにつながる。これが金沢の「認知症の人とともに生きる」ことの流儀。

さて、二夜に渡っての「認知症とともに生きるまちを行く」。
ここでは何かの課題設定があるわけではない。カメラに向かって、自身の認知症を語る当事者のシーンもなければ、タイトル以外には「認知症とともに生きる」といったナマの言葉も出てこない。
つまり、認知症を単体に課題性で切り取るのではなく、常に「まち」の中の認知症をカメラは捉えている。私たちの地域、まちの中の認知症との対話と関わり合いを描いている。あたりまえの風景として。

私はこの番組映像を見ながら、ひぐらしの声につつまれて、故郷の風景を眺めるような懐かしく、物哀しい思いに駆られていた。
コロナの時代は、あたりまえの日常を奪い去ってしまった。そのあたりまえの日常のかけがえのなさをどうしたら取り戻すことができるのだろう。

認知症の人々の、あの笑顔と声が聞こえてくる。

|第152回 2020.9.14|