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「認知症社会」を読み解く人たち ふたりの研究者がすごい

コラム町永 俊雄

▲認知症の研究者といえば、どうしても医療や福祉の分野の人たちが目立つが、石原明子氏の専門は紛争解決学、井口高志氏は社会学者である。これまでとは違う新鮮な視点からこの研究者は、「認知症」をどのように見て、捉えて、発信するのだろう。

認知症は時代とともにその捉え方が変わっていく。今どうなのか、ということは現時点だけで見るのではなく、これまでの軌跡や様々な立場の視点が必要なのは認知症だけの話ではなく、この社会を切り分けていく基本動作だろう。

認知症に関しては医療、ケア、そして当事者、さらにはメディアが外郭を埋める。
そこに研究者が加わる。とりわけ福祉や医療分野ではない研究者は、この時代の「認知症」をどのように見つめているのだろう。

熊本大学の石原明子は「紛争解決学」を専門としている。その紛争解決学のどこが認知症に結びつくのか誰もが首かしげるが、彼女は「ひょんな事から」認知症の病気の定義に「認知症の周辺症状は暴言、暴力、不穏行動、不安などなどとあるのを見て目が点になった」と、自身のSNSにこのように記した。

「ん?むむ?  紛争解決屋から見ると、周辺症状に挙げられているものは、すべて紛争現象(コンフリクト)で、「これって病気なの?(病気じゃないじゃない?ただのコンフリクトでは?)」とびっくりした。
それから認知症について考え始めて、びっくりしたのは、認知症とは、人と人のコンフリクトを「患者の症状」とすることで、そのコンフリクトが「両者」の間で起こっているという事実に目を背けて、「片方(患者のレッテルをつけられた人)」の問題として押し付けているという、権力下でのコンフリクト現象なのだ、とわかってきた」

実にダイナミックな視点で、「認知症とは、両者の間のコンフリクトを、片方の人の問題(認知症の人の側)として押し付けている」というのは、これまで言われていた認知症にズバリと課題をえぐり出す。

ここでいう「権力下でのコンフリクト現象」というのは、誰かの誰かに行使される権力に限定しない。
そもそも私が石原明子と出会ったのはある研究会での彼女の報告であった。
その時、彼女はノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトウングの構造的暴力論を語った。構造的暴力とは、誰かが誰かを殴りつけるといった直接的暴力とは異なり、例えば南北問題になぞらえるとわかりやすい、と彼女は次のような旨を語った。

「先進国と途上国の格差を考える際、その不平等な世界で、貧困によって人の生存が脅かされる現実がある時、そこには構造的暴力が存在する。」

それを聞いて、勃然として気づく。社会に根深く遍在する認知症に対するスティグマ、偏見、差別に認知症の人がさらされる時、そこには、この社会で認知症への「暴力」が行使されているということだ。

私たちの無意識のマジョリティや健常社会の側のおごりは、どこかで不可視化された「権力装置」を社会に埋め込んで、両者の問題を一方的に認知症の人の問題として押し付けている。それはこの社会そのものに、認知症への「構造的暴力」が存在し、「権力下のコンフリクト現象」を生んでいるからだ。

石原明子は、この想いから新たな研究を開始している。それが「紛争解決学で読み解く認知症者の対人間葛藤-認知症との共生社会のために」だという。
何かはるかな地平からの旅人が、こんこんと湧き出る清冽なオアシスを掘りあてたといった趣である。

同じようにこの「葛藤」を軸にケア実践を解き明かすもうひとりが、東京大学の井口高志である。井口はこのほど「認知症社会の希望はいかにひらかれるのか」という著書を出した。

井口は長い間、ケアの実践と本人の声をめぐる論文を発表し続けてきた。それを今回統合する形で、この認知症社会のこれまでを「社会学的探求」の論考として出版した。
大まかに記せば、井口は1980年代からの認知症をめぐる動向を精査しながらつなげていくという作業に取り組んできたその労作である。

論述のデッサンとしては、現時点の認知症は「みんなの問題」であり、認知症の人はかつての特別な人ではなく、認知症の理解と包摂のムーブメントは今や、否定できない地点に到達していると、まず位置付けている。
ただし、この地点が確定的であるのかどうか、そのことを批判的に明確にするのが社会学の役割とし、そこから遡及的に時代をくりこみながら緻密に論を進行させている。

そのスタートラインの設定がユニークだ。ともすれば今、「認知症とともに生きる」という取り組みが、アプリオリにこの理念に同意する人々の中の言葉として響きがちな中、そこに井口は、慎重に不協和の声を差し入れることから論を揺りうごかす。

それは主にケア、介護者の側の声である。彼はこうした人々の中の抜きがたい「葛藤」に注目する。ケア実践者の中には、認知症の「新しい時代」の動きに懐疑の眼差しが向けられることがあるとして、こう記している。

「(その懐疑とは)、これまで介護問題の枠内でイメージされていた認知症像との大きな乖離を感じさせるためにリアリティが持てず、切実な課題として受け止められていない」

要するに介護職の人々の、目の前のケアの対象としての現実の「認知症」はそんなものじゃない、という受け止めであろう。
支援と被支援の関係性ではなく水平につながる「人間同士」の関わり合いが大事、と言われたところで、それで介護職に何ができるのか、とリアリティーが持てないという声もあるだろう。
あるいは、進行して重度の認知症の人の思いをどう聞き取ればいいというのか、という切実なケア者に対して、識者の言う、どんな状態になってもそこには人間の尊厳がある、といった知見が示されたとき押し黙るケア者の思いを、果たして納得としていいのか。

井口はこうしたケア実践者の声や葛藤が現在の「認知症」を世に押し出したのであり、この声を踏まえないと、現在の「みんなの問題」としての意義は明確にならないとする。それに続く井口の論をたどってみよう。

「現在のムーブメントに対する「無理解者」「批判者」のように思える人たち、それは例えば、これまで重度と呼ばれる認知症を見てきた人たちや、介護者という立場から、認知症の本人の主体性の存在に疑問を持っているかもしれない、(そうした人々)との何らかの議論の接点を見出していけるかもしれない。」

ナイーブな論点だが、あくまで冷静で硬質の文体である。そこには、こうした声を無視したり否定するのではなく、こうした声の包摂が実は今日の「本人の声を聴く」「当事者の語り」の成立に関わるとする。
もしこうした声を排除して辿るなら、その認知症社会は、実践と切り離されたキレイゴトになりかねない。

例えば、天神オアシスクラブのデイサービスでのケア実践は、詳細なフィールドワークのドキュメントである。
そこでのケアは、認知症は「治すことはできない」が、「する」ことは可能だとしながらも、しかし、そこで老いや衰えという「進行」にどう「寄り添う」かの困難に直面し、ついには「ある時点から先の段階の人を排除してしまうような帰結にいたってしまう」といった切ないケア実践のジレンマを描く。

ケアの現場は、理念を抱きしめながら現実の中をかき分けて行かざるを得ない。そのことを踏まえつつ、現在の「当事者の語り」までを分断することなく語ることはできるか。井口の問いかけが続いていく。

井口の特質は、「重度」「進行」「寄り添う」といったタームをケアの実践の現場に置き、時代に注ぎ込みながら、図式の単純を脱した複相からなる「認知症」の現在地を探り当てようとしていることだ。
ここにあるのは、彼の「認知症にまつわる問題の解決ではなく、問題がどのように成り立っているのか、いかなる問題として理解すればいいのかの「解明」をしていくことを目指す」という社会学的批判の方法なのである。

彼の論考は、常に複合的な視点を設定しながら、本人の思いを聞くこと、寄り添うこと、そこでのケアのジレンマや挫折、メディアはどう伝えたか、その変遷、といった具合にありとあらゆる言説と動向を取り込みながら、緊張感をはらみジリジリと進んでいく。時代をウィットネス(目撃)するような読み応えに満ちている。

実は私は以前に井口の論文に接して、「ここには筆者の「息遣い」が感じられない」と批判したことがある。この著を通読して、まことに自分の浅慮に恥じる。
確かに全体は、井口の主観も思いも注意深く抑制され、明確な答えも回避されている。しかし、だからこそ読み終えて明確に見えてくるのは、立場の違いによる各論の対立や分断ではなく、なんとか「認知症」をめぐる全体像を示そうという彼の持続する志だ。

論考の注釈に、社会学は「問題はそもそも何か」というWHATを考察し、現場の人々は、「改善のためにどうすればいいか」というHOWから取り組むと、社会学と現場性の対比を示している。それはあたかも「理念」と「現実」の間に絆をつなぐ、といった営為といっていいだろう。そのような著作である。

余談ながら、石原明子も井口高志も共に今、「子育ち」という自身と分かつみずみずしい生命との暮らしを営み、そこでの喜びや思いの断片をSNSを通して仲間につぶやいている。
我が子を見るまなざしと、「人間」を見る視点、社会への視点それぞれが緊密に調和している研究者なのだ。
私たちの共同体の仲間にふたりの気鋭の研究者がいる。僭越ながら、それはこんなにも心強い。   (文中敬称略)

|第153回 2020.9.25|

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