認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

なぜ、感染した人や施設は、謝罪するのだろう

コラム町永 俊雄

▲オンラインでの打合わせ、会議、講演が増えている。その時、このオンラインからどうしても外れてしまう人がいることを必ず念頭に置く。パソコンのそばにシトラスリボン。この日々だからこそ社会を見つめ直そうというリボンプロジェクトだ。

もはやポストコロナ(コロナ後の世界)は来ることはなく、ウイズコロナの世界が続くだろうという。
東大名誉教授で日本を代表するウィルス学者の山内一也さんは、46億年前に生まれた地球の誕生から現在までを一年間とするなら、ウィルスが登場するのは5月の初め、現生人類が出現したのは12月31日の除夜の鐘を突き終わるその最後の数秒だったという。
この惑星のもともとの大家はウィルスなのであり、人類などウィルスにとっては取るに足らない存在なのだと、ウィルス学者は語る。
だから山内さんは、20世紀はウィルス根絶への苦闘の世紀であったが、21世紀はウィルスと共に生きる時代なのだという。

やれやれ、そう言われてもなあ、と最後の数秒に現れた人類の一員である私は小指で眉を掻くしかないのだが、これは多分、ウィルスが収束したところで、この社会は再びノーテンキな元どおりの姿になることはなく、どこか根底ですっかり変わっていく、そんな覚悟と展望を持てといったウィルスから人類への恫喝と問いかけなのだろう。

今後はウィルスと共に新しい社会を、といった言説が何か見識に満ちた文化人の口吻としてもてはやされているが、では、あの東日本大震災で、深く深く傷ついたふるさと、人々の命と暮らしはもう忘れてしまったのだろうか。瓦礫に佇んで、これからこの国は新たな姿で立ち上がるしかないと、涙の中で誓い合ったのではなかったのか。

いや、これは自分で自身に突きつけたヤイバだ。ただ、このCOVID-19、新型コロナウィルスの違いは、「誰もがこの事態に巻き込まれている」ということに尽きる。

そんなこんなを頭の中に響かせながら、このところはもっぱらオンラインフォーラムのハシゴである。
「共生社会」を語ったら、今度は「介護崩壊」を見つめ、ついでがん医療の最前線を語り合う。それぞれのテーマのオンラインを切り替えるようにして時間が来るとパソコンを起動して、その前に座る。
最初のうちの非日常感覚はたちまちに麻痺し、時代の危機の中にいても、危機も日常のようになってしまっていつの間にか秋の盛りである。
ふと、何か怖くなる。

医療者や介護専門職、福祉関係者らとのオンライン会議「介護崩壊を防ぐために」が先日開催したウエブセミナーで、「安心して感染できる社会」と題して報告をした。
その報告の中で、ひとつの設問を盛り込んだ。
「なぜ、感染した人や施設は謝罪するのだろう」

感染した人や、クラスターを出した企業や施設は、必ずといっていいほど世間に謝罪する。なぜ謝罪するのだろう。こうした自分にヤイバを突きつけるような問いでしか、新しい社会というものは描けない。
共生社会を語ってきた人たちが、この事態だからね、という呪文に思考停止になってしまったのは、この社会はまだまだ共生を語る資格がなかったのかもしれない。あるいはだからこそ、この経験の中で共生を語るしかない。

さて、なぜ謝罪するのか。
この新型コロナウィルスは、誰にも感染しうるとされながら、なぜこの社会には感染したら謝罪する、というメンタリティが根付いているのか。
それは全く違う性格のものであっても、まるで芸能人が違法薬物の使用や所持で謝罪するのとどこか同じ絵柄のようにも見えてしまう。
もちろん、私の言いたいのは、感染した人や施設の人を責めているのではなく、その背後にある社会の側の何が謝罪させているのか、ということだ。

誰もが感染しうるという感染リスクは、実はこの社会の誰にも訳のわからない不安を植え付けた。その不安は怯えになり、ついで怒りに転じた。
自分の不安をもたらしているのは、ウィルスという見えない存在なのだが怒りの対象とするのは難しい。ウィルスに対して怒りまくっている人をまず見たことがない。となると「感染者」であれば、仮想敵としてロックオンできてしまう。

連日の感染対策は、もちろんそれは公衆衛生などの医学レベルでは確かなものであったが、対策すべしの声が施政者からメディアに、さらにSNSで拡散される過程で、このウィルスは「なってはならない」という否定の文脈だけが突出し、不安はいつの間にかわかりやすい「怒り」に取って代わった。
怒りは当然はけ口を求める。誰もが感染しうるという被害者性は、誰もが加害者になることに転じてしまったのである。

精神科医の斎藤環さんは、パンデミック下の常識というのは、「誰もが感染しているという前提でふるまうこと」とし、それを汎当事者性であるとした。
つまり、自分の前に他者を置き、その人に「感染させないこと」がパンデミックを乗り越えるための誰もの当事者性としてのふるまいであるとしたのだ。

ところがこの国の濃厚な感染対策はどこでどう掛け違いがあったのか、誰もが自分だけが「感染しないこと」に、ひたすら突き進んでしまった。だから、他人に感染させるかもしれないという自分の中に潜む加害者性を受け止めることはなかった。

感染対策が、自分だけは感染しないことというのであれば、それは自分の周囲との関係性を断ち切ることである。排除することである。周囲をリスク集団と見ることで、それは自分で自分を孤立に追いこみ、世間を敵視し、その恐怖は怒りとなって攻撃性を持つ。

逆に、他者に感染させるかもしれないことを前提に行動するのであれば、自粛というのも自分で主体的に引き受けることになる。自粛することが、他者へのリスクを低減させるという「行動性」を生み出す。
それは常に他者との関わりを自分に据え続けることになり、つながりは途切れても、つながりは個々の中に保持されていく。
誰かに感染させるかもしれない自己の加害要因を見つめ、それを避ける行動をすることで社会のリスクは減少し、それだけでなく被害感情が引き起こす差別や中傷も起きにくくなる。

差別というのは自分の中に潜在する加害者性を認識することでしか回避できない。
JDWGの藤田和子さんは認知症を権利の視点からも語る人だが、かつて子供の学校の人権教育に参加する時、リーダーからこう問われた。
「あなたは差別する側か、それとも差別をなくす側なのか」
その時藤田さんは気付いたという。
「そうか、差別をしないという傍観の立場はないのだ。この社会は能動的な当事者性でしかより良くならない」
その後の認知症の当事者組織を率いる藤田和子さんの原点であろう。

この時、私もまた気づく。仮に私が感染したとなると、私はきっと謝罪するだろうなあということだ。「ご迷惑をかけました」と。なぜだろう。
それは感染すると「感染者」になってしまうからだ。私ではなくなる。ラベリングやカテゴライズというのは、差別の装置である。
私は「謝る」ことで、「謝れよ」とする社会と歪んだ関係性をなんとかつなごうとするしかない。
これが、「私」がそのまま承認されているのなら、謝罪は私の判断として妥当かどうか、私は考える。しかし、すでに「私」は剥奪され、私は「感染者」なのである。

この新型コロナウィルスが、この社会の本質的な脆弱性を暴いた、というのはこういうことなのではないのか。
共生社会なんて、嘘っぱちじゃないか、そんなウィルスの高らかな嘲笑を聞いた思いもする。

だから、「安心して感染できる社会」なのだ。
私がこのことを語るのは、この言葉が、この社会の解釈ではなくて未来という方向性の座標に置かれているからだ。
この言葉を社会化することができるかどうかは、私たちのふるまいに託されている。

|第155回 2020.10.21|

この記事の認知症キーワード