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認知症と「あたえ合う社会」

コラム町永 俊雄

▲私たちはどこに進むのか。分岐点は選択を迫る。どちらにいくのが正しいのか。しかし、あちらから見れば、道は合流しているのである。発想を逆転させ、様々な思考、動き、想いを合流させて新たな共同体へ。

先日、朝日新聞の認知症のウエブサイト「なかまぁる」が主催する認知症をテーマとしたショートフィルムコンテストに参加し、ノミネート作品のコメンテーターをした。

これは、認知症をテーマとする映像コンテストだ。認知症の語り口が多様な時代になっている。
優秀賞になったにじたろう監督の「パパのパイ」は絵本のようなアニメ作品である。
作品は、子グマと親グマの物語だ。子グマは成長の過程では、ケンカしては負け、パイロットになる夢破れ、想い人には失恋して、失敗と挫折の連続だ。そんなことがあるたびに親グマは甘くてやわらかなパイを焼く。
やがて親子のクマは歳を重ね、親グマが認知症になる。その親グマに、今度は大人になった子グマがパイを焼く、そんな物語だ。
親子の人生の旅路のつらさと困難のたびに焼かれる「パパのパイ」とは何を物語るのだろう。私はそれは、「あたえ合う」という関係性を示しているのではないかとコメントした。

親は子に限りない愛情をあたえ慈しむものだとよくそうした構図で語られる。が、子もまた親に対して大きな何かをあたえている。子の存在が親にあたえてくれるものはなんだろう。その限りないものによって、親は親に育っていく。

「子育て」ではなく、「子育ち」と言われるのは、親が子を一方的に育てるのではなく、子もまたどんなに幼くても一人の人格の「育ち」の主体として捉えることで、「子育ち」であり、また親も最初から親として登場するのではなく、子の存在によって親に「育つ」のである。
親と子は、相互に限りなくあたえ合う。その象徴が「パパのパイ」なのである。
親が認知症になったから、その慰めとして子がパイを「焼いてあげた」とするのは読み違えだろう。

それでは、「あたえ合う」とはどういうことだろう。
これまではとかく「支えあい助け合う」ことをキーワードに共生社会を描いてきた。
もちろん、この言葉を否定するものではないが、どこか社会福祉の用語の響きがありすぎる。「支えあい助け合う」には、そこに支えや助けを必要とする人がいる、とする設定が置かれている。対して「あたえ合う」には、それぞれの自分の力、レジリエンスを引き出すニュアンスが込められている。

貨幣経済に先立つ私たちの共生の社会は、あたえ合う贈与(gift)の社会だったと言われる。支え合いが、福祉の言葉の限定であるのなら、あたえ合うということは「ともに生きる」ことのメッセージだ。
フランスの社会学者、文化人類学者のマルセル・モースは、未開社会や古代社会では、「贈与」が大きな要素であるとして「モースの贈与論」を著した。
モースによれば、贈与とは「互酬性」があり、それは近代の相互扶助システムにも基底としてつながりを持っているとした。

考えてみれば私たちの社会にも「贈与」は息づいている。お中元やお歳暮、何かの時のプレゼント。形骸化した慣習だとか商業主義と言われながらも、誰かに何かを贈る時、その人の顔を思いうかべ、その時きっと相手の喜ぶ顔と対面し、自分の心に何かが満ちてくる。
自分と他者との関係性、つながりを確認し承認することが、日々の暮らしのアクセントになったりする。

しかし現代の社会システムでは、牧歌的な等価交換の経済はひたすら利潤追求の貨幣経済に取って代わり、やがて、マネーという制御不能のモンスターを暴走させ、人間関係を排除したAIとスパコンが支配する国際金融マーケットは、今や財の収奪の荒野となってしまった観がある。

奪い合うのではなく、あたえ合う。
贈与のもたらす「互酬性」とは「あたえ合う」ことである。
同時に、互酬性とは、今注目されているソーシャルキャピタル(社会関係資本)にもつながる概念だ。

ソーシャルキャピタルとは、一口で言ってしまえば、地域社会などでの人々の絆、つながり、信頼関係を表す概念だ。
現代では、地域コミュニティの後退や過度の個人主義の反省から注目され、フィジカルキャピタル(物的資本)やヒューマンキャピタル(人的資本)と並ぶ新しい概念だ。
「社会関係資本」と訳されるように、人と人との関係性が大きな力になるというわけだから、しっかりつながろうとか、共に生きようといったことも、このソーシャルキャピタルから生まれていると言っていい。

となれば、あたえ合う社会とは、互酬性が豊かに行き交い、人々の信頼やつながりであるソーシャルキャピタルが活性化することをめざす。これはそのまま共生社会であり、安心の社会のことだろう。

贈与も互酬性もソーシャルキャピタルも、疲弊しデッドロック状態のこの時代にもう一度「あたえ合う」人間原理へ回帰しようとする無意識の社会の声と、私には聞こえる。
とりわけこの新型コロナウィルスの日々の中で。

実は、認知症と贈与は関わりが深い。
三鷹ののぞみメモリークリニック院長の木之下徹医師は、認知症の当事者勉強会を長く主宰しているひとりだが、その近著「認知症の人が、さっきも言ったでしょ、と言われて怒る理由」で、イギリスの心理学者、トム・キットウッドの認知症のパーソンセンタードケアについて触れている。

キットウッドは、「人の積極的な営み」として12項目を挙げているが、その最後の二つの「創造的行為」と「贈与」を特別なものとして挙げている。どういうことだろう。
木之下医師は著書で次のように語っている。

「キットウッドはここで何を語りたかったのでしょうか。
彼が創造的行為と贈与だけは特別とした理由は、最初の行為者が認知症の人である点だといいます。認知症の人の言動(act)がケアする人の反応を起こさせる(react)という設定です」

これをどう読み解くか。
贈与の最初の行為者が認知症の人である点だとする。これは鮮やかな逆転ホームランのようなものだ。どう言われようとつい、ケア者が最初の行為者であり、その巧拙なり経験の熟度によってケアの評価が定まると考えがちだが、実はそうではない。

まず、認知症の人の言動(act)が、実は「ケアをあたえる」とするのだ。
「あたえられた」ケアする人は、そのことに反応し(react)、両者の関係性が互酬性を伴って創造される。つまり、そうしたあたえ合い関わり合うことの成立を「人の積極的な営み(positive person work)」とキットウッドは言っているのではないか。
(キットウッドは、この研究の途上で亡くなったので、彼がどんなふうに語ろうとしてかは知るよしはない)

あるいはこうしたことは、ケアする人にとっては経験的に自明のことかもしれない。ケアとは、そのような協働的な創造的行為なのだ、と。
しかし、このケアの全体性を認知症の人からの贈与(ギフト)と呼ぶ時、それは新鮮な力を呼び起こす。

「認知症」は、贈与の最初の行為者なのだ。
「認知症」は、私たちの社会に惜しみなくあたえ続けている。
「認知症」は、私たちの社会に何をあたえているのだろう。

何があたえられるのか、それはわからないことに意味がある。
それは贈与された側がそのことを引き受け想いを寄せることでケアが生まれ、人が人であること、尊厳への気づきを起こさせる。そしてそこから、あたえられた人の内部に返礼としての新たな贈与が見出され、互酬性の循環が生まれてくる。
あたえ合うということが、相互のまなざしとなって、私たちの地域共同体、ソーシャルキャピタルを豊かにしていく。

幼子はこの世に生を受けた時点で、私たちへのかけがえのないギフトだ。
子の存在は惜しみなくあたえる。生きることの困難やつらさやよろこびなど、その幼子から手渡されたギフトに親は親に成長し、共に歩み出た地域社会に新たな力をあたえていく。

あたえ合う私たちの社会。
「認知症」は、私たちに何をギフトとして手渡そうとしているのだろう。

|第156回 2020.10.28|

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