認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • 医療

ワクチン接種が「努力義務」とはどういうことだろう

コラム町永 俊雄

▲ワクチン接種まで、輸送や保管や接種会場の整備と大変である。となると、私たちはそれまではただ待つだけでできることは少ない。しかしだからこそ、接種を受ける私たちが、それまでに考えなければならない事はなんだろう。

日本ではワクチン接種は国民の「努力義務」となっているのはなぜなのだろう。
正誤を問うているのではない。その言葉でいま押し進められていくワクチン接種の背景で何が潜むか、あえて立ち止まるようにして「努力義務」の熟語を見つめる。
この事態にどうでもいいこととか、イチャモンをつけるだけと言うふうにも私は思わない。コロナの時代だからこそ通しておくべき筋がある。

新型コロナウイルスのワクチン接種が始まって、今度はその体制整備やスケジュール、世界のワクチンの供給状況がそのままダイレクトに私たちの接種にむすびついている。

実はワクチン接種というのは、国家の安全保障にかかわることとされており、世界のワクチン供給の公平を審議するのは国連の安全保障理事会の閣僚級会合の場なのである(2/18 NHK)。

そうした世界規模でのタスクフォースの側面がある一方で、実はこの国の誰もに関わる密接な「私ごと」である。
接種を受ける私たちがこの接種の意味合いを、感染対策や世界戦略からは一旦離れて自分のことに引きつけたとき、どう受け止めればいいのだろう。

先日私のSNSフェイスブックにそのメモと言ったものを記したが、その後、これは存外大切なことであることに改めて気づき、多少の考察と整理を加えて、その全体像をここに再掲載させていただく。

コロナウイルスワクチンの医療従事者への先行接種が始まり、今後は高齢者や基礎疾患を有する人、と言った順に一般の誰もが接種することとなる。
そのとき、どうも気になるのが、日本ではこのコロナウイルスのワクチン接種が「努力義務」となっていることだ。

対してイギリスのディメンシアUKが出した「認知症の人のワクチン接種のためのお役立ちガイド」では、ワクチン接種を、強制はしないが、「強く推奨する」と繰り返している。

「努力義務」と「強く推奨する」
そのどちらも任意であることや、副反応などの健康被害補償も示されているので同じ環境なのに、なぜかその受け止めに大きな違いが出る。それはなぜか。

「努力義務」とした場合、当然努力するのは、私たち国民である。「努力義務」とするのは、私たちの責務を求めていることである。
しかし、見方によればこれではまるで、ワクチン接種は国が恩恵として与え下すので、国民各自、接種に一層奮励努力せよ、と言った構図ではないか。

ワクチン接種は私たちの努力次第なのであるとすれば、接種した人は努力義務を果たした人であり、接種しない人は、その努力を放棄したことにはならないのか。
接種が努力義務とする中で、接種の努力をしない人を世間はどう見るか、差別されないかの懸念が出ても不思議ではない。

実際、去年の11月の衆院厚労委では、努力義務とされる接種をしない人が、学校や職場で差別されないための注意喚起を政府に求めるという改正予防接種法の付帯決議を採択しており、また今年2月5日の衆院予算委では、改めて、田村憲久厚労省が「接種を義務づけるような形で、各職場で何らかの差別行為がある事は看過できない」と答弁し、差別が起こることを想定している。

どうもこの辺りが分かりにくい、というかピント外れの感を持つ。
たしかに、努力義務と言っても、実質は任意であり、接種しなくても罰則はないと改正予防接種法には規定されているのだが、これだと努力しろと言われているのか、努力しなくてもいいよ、と言われているのかよくわからない。接種する私たちになにを求めているのかがよくわからない。

対して、イギリスディメンシアUKのワクチン接種のためのガイドでは、強制はしないが、「強く推奨する」と言い切る。この背景には何があるのだろう。

「強く推奨する」という主体は、この場合はディメンシアUKという団体だが、イギリスもまた明確にワクチン接種を勧奨しているので、英国と考えてもいいだろう。
国が「強く推奨する」と言った場合、その責務、責任は国の側にあるとする宣言でもある。「強く推奨する」以上、その理解と納得のための十分な情報提供は国の側で用意しなければならない。

「努力義務」と「強い推奨」、両者の違いは、主体がどちらかと言うことと、もう一つ、「努力義務」の違和感は、その裏付けとしての権利の不在にある。
「義務」と言うなら、当然「権利」が付帯する。「権利と義務」である。権利と義務は一体化した概念だ。

義務教育を考えればわかるが、子供に教育を受ける義務があるのではない。
親の側に、子供に教育を受けさせる義務があるのである。子供にあるのは、教育を受ける権利である。
つまり、ワクチン接種を考えるとき、私たちの側にあるのは、義務ではなく、権利なのである。
そして、その義務を担うのは、この場合は国である。
国は私たちに接種の「努力義務」を押し付けるのではなく、私たちが接種を受ける権利を安心して行使できるように、私たちの理解と納得と万全の実施をする義務がある。

「努力義務」は、お国の側にあるのだ。
私たちは理解し納得の上で、接種する、あるいは接種しない権利を行使する。
「努力義務」を担う国は、私たちの接種を受ける権利のために、円滑で心配りに満ち、そして漏れのない万全の接種体制に努力していただきたい。

私たちの「権利」と国の「義務」がスムーズに噛み合いながらワクチン接種が展開する過程で、おそらくこの社会は、私たち自身が創り上げた大切な体験と記憶を植え付けていくに違いない。

権利や人権と言うと、何か抽象的な自分の生活とは関係のない概念と捉えてしまいがちだ。
しかし、権利とは私たちの毎日の生活を支えている「あたりまえ」のことである。

ワクチン接種では、その供給体制や順位やスケジュールなど、私たちの側にできる事は少ない。
だからこそ、私たちができること、意識しなければならないこととして、このコロナの時代でも決して奪われてはならない権利の行使の絶好の機会であると受け止めれば、医療モデルのワクチン接種が、私たちの新たな社会へ、一人ひとりの「権利というワクチン」を注入することになっていくだろう。
それはきっと、このコロナ収束後の世界の確かな力となってくれるはずだ、私はそう思う。

|第168回 2021.2.24|

この記事の認知症キーワード