認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

小松市認知症ケアコミュニティマイスターは、コロナの時代の社会の備えだ

コラム町永 俊雄

▲小松市認知症ケアコミュニティマイスター養成講座の受講生たちと。コロナの時代だからこそ、地域と自分に備え、蓄えとして学びの機会を持つ。今、全国のこうした取り組みは、宇宙船から見れば点々とつらなる輝点となって列島の春を彩っているはず。

先日、石川県小松市の「小松市認知症ケアコミュニティマイスター養成講座」でオンラインの講演をした。
各地でオンラインでの講演が行われているが、とりわけこのマイスター講座の参加者(ここでは受講生と言ったほうがいいだろう)の感度はいい。

何しろマイスターといえば巨匠であり親方といった意味だから、コミュニティマイスターとなれば、いわば、清水次郎長である。というと何やら語弊がありそうだが、幕末、明治の侠客の次郎長は、地域の親分(コミュニティマイスター)だし、旧幕臣救済の社会事業家の側面もあったとされるから、心意気としては通じるところがないわけではないだろう。

小松市の認知症ケアコミュニティマイスターになるためには、ほとんど毎月の、丸一日かけて開かれる年間養成講座を受講しなければならない。一年で必要な単位数を受講しきれない場合は、何年かかけてもいい。そしてそれだけではない。

ここでの養成講座では聴いただけでは終わらせない。聴いた以上、そのことをどう活かすのか、地域へのアクションプランの実践が求められる。
つまり、講座、演習、アクションプランをくまなく受講し修了しなければマイスターと認定されない。モットーは「とことん当事者」なのだという。
もともとは一人の保健師、ケアマネである榊原千秋氏の地域活動から発展し、2016年からは小松市の事業となっている。

だから、受講生の感度がいい。感度よく受講しなければ、地域を動かす自分のアクションプランにつながらない。
受講生は専門職ばかりではない。当事者、介護者、民生委員、企業人、住民、とりわけ主婦の参加が目立つと榊原氏は語る。生活者の視点が加わる時点で、地域の接点が確かなものになる。

私の講演の後、受講生たちとの話し合いの場が設定された。
その折の、彼女彼らの話すことを聞きながら、私はここでは感度がいい、そう思ったのである。
その話し合いは感想にとどまらない受け止めの深度がある。それぞれの人が、自分に引きつけ内面化し、ある人は自分の認知症観の修正を語り、またある人は明確ではないとしながらも自分の地域アクションのイメージを辿ろうとした。

聴くこととはどういうことか。
聴くことが受動の言葉ではなく、能動の言葉に転換させる装置が、おそらくこの小松市のマイスター講座なのである。このコロナの時代に伏流する地下水脈のように、今、全国各地でこのような地域活動が生まれているはずだ。
それは、コロナの時代だからこそ生まれた当事者性を帯びた私たちの社会の「備え」であろう。

こうしたみずみずしい動きが生まれている反面、やはりコロナの日々は困難の連続だ。この社会は幾重ものレイヤー(層)で構成されている。

このコロナの日々は誰をも当事者化したという図式で語られる。
単なる図式の中だけで実感ないままの危うさは、ウイルスは同時に「当事者であること」を奪い、ひたすら人々の他者をみる目を険しくしていった。
自分だけが感染しないようにする行動は、ひたすら「利己」に傾斜し、パンデミック下の常識としての、自分が感染しているものとしてふるまうという本来のつながりの基盤である「利他」を押し潰した。

共生も多様性も、利他としてのふるまいが利己を育むはずなのに、新型コロナウイルスは、一年以上に渡ってこの社会に浸潤しつつ、私たちの暮らしの福祉ストックを食い尽くし、トゲトゲしい利己を培養してしまった。

東日本大震災の時、被災地の福祉施設の事業者が嘆いた。
この地域もすっかり変わってしまった、という。それは被災の風景だけの話ではない。
「駐輪している自転車の列をなぎ倒す人がいる。夜、自販機を訳もなく蹴りつける人がいる。盛り場で小競り合いが頻発している。こんな土地柄では決してなかったのに・・」

これはコロナの日々の今の私たちの社会の風景だ。
社会がギスギスと音立てて軋んでいる。桜の季節、週末の上野公園の人出をテレビが伝える。客観の報道であっても、そこにはすでに、この事態なのにこんなに人出が、という非難がましさを視ている側は読み取ってしまう。
私はこんなに我慢しているのに、あの人たちは私ほどの我慢もしていない。テレビの春爛漫の映像に、そんな気持ちが増幅される。

私は、桜に惹かれ湧き出てくる人々を一概に非難できない。週末の盛り場をそぞろ歩く若者たちだけが眉ひそめる風景とも思えない。
もちろん、不要不急の自粛こそが肝心であることも理解している。それが唯一私たちのできることであり、正しいことであるのはまちがいない。ただし、正しいことはいつもいいことだとも思わない。

ここにあるのは日常という暮らしの簒奪なのである。仕方がないと言って済ませるわけにはいかないことを、仕方がないからと言っている自分がいて、その自分の「正しさ」に引き裂かれている。

本来は、緊急事態の発出とは、その間に必要で有効な手立て対策を立てるための期間だったはずなのに、施政者が会見で述べるのはいつも、今後の感染拡大の可能性で脅しをかけ、ただ一層の自粛を押し付けるだけだった。
感染拡大はいつも私たちのせいで、一層の自粛という我慢だけを求められた。

今改めて、人権侵害としての精神医療の現実である拘束が語られているが、その拘束を、自分の意思に沿わないままに行動の自由を奪われるものと捉え直せば、私たちは今この社会に拘束されている。
コロナの時代というのは、自分の意のままにならないことに縛られてしまっている拘束の社会なのである。

その見えない拘束は、新型コロナウイルスのもたらしたものであれば、仕方ないと誰もが、自分のあたりまえの権利までも棚上げしてでも自粛協力をしてきた。
しかし、いかな従順な私たちにも見えてしまったのである。

私たちの暮らしを縛り上げているのは、新型コロナウイルスというより、どうやらこの社会の根深く得体の知れない何かであるらしいということを。
ひょっとしたら私たちは、無能無策の政体を持っていることの無念のやり場なく、その情念のハケ口が、私たちを縛り付ける「正しさ」のダークサイドをあらわにしてしまったのかも知れない。

若者たちの外出が感染拡大の要因とされるが、一方で入学以来、親元を離れて一人暮らしのまま、憧れのキャンパスライフも友人との交流もなく、心を削り自分の命を吹き消そうとする衝動の中にいる若者たち。彼ら彼女の声は、「若者」と一括りにされて埋没している。

高齢者の孤立は命を脅かし、若者の青春の一日という時間の喪失は、老人の何年かの喪失にも値する。でも、仕方がないのだよ、この事態だから、と私と社会はささやき続けている。
ギスギスと、すれ違う人の流れが音立てて軋んでいるようだ。
「あの人のマスクがずれている」「あんなに連れ立って大声で話していいの」

あの被災者の嘆きが蘇る。
「こんな土地柄では決してなかったのに・・」

私たちはどうつぶやけばいいのだろう。
「こんな社会ではなかったはずなのに」なのか、「こんな社会であったのだ」なのか。

|第172回 2021.4.6|

この記事の認知症キーワード