認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

コロナの時代に「認知症」をどう語るのか

コラム町永 俊雄

▲誰一人いない風景が、あたりまえの安らぎになっている。でも本当にそれでいいのか。認知症は特別な疾患ではなく、あたりまえのこととして地域を組み直してきた。「あたりまえの認知症」から、「認知症をあたりまえに」。そのような語り口を私たちは持てるのか。

このところ相次いで認知症をテーマにオンラインで講演を続けることになった。
そのことで明確に見えてきたことがある。現在の社会の状況で(これはこのコロナの日々が大きな要因となっているのだが)、認知症を単体で語ることはもうできないのではないか、ということである。
認知症だけを切り出して、そのことをテーマにするというのは、例えばケアや医療の立場からは可能だろう。
しかし、認知症というのは、ケアや医療のカテゴリーには収まらないテーマなのである。それは一つには認知症という当事者性にある。よく言われるのが、誰もが認知症になりうるのだという捉え方である。しかし、それはともすれば、あなたも認知症になるのだという不安を掻き立てるようにして、だから認知症を理解しましょうという啓発活動につながる。それは本来の当事者性の使い方とはズレている。
もちろんこれはこれで重要なことではあっても、それもまたケアや医療に加えて理解すべき事柄としての啓発というカテゴリーの中に閉じた認知症なのである。

もちろん、認知症をテーマに密度を持って語ることに意味はあるし、そのことを否定するものでもない。ただ、認知症だけを切り出すというのは、それは例えば医療やケア、あるいは地域福祉などの枠組内での共通した問題意識を前提にしたときの作法である。
そしてそれは、「認知症を見る」というまなざしにどうしても傾斜する。

私が語る認知症、それは、「認知症から見る」というまなざしなのである。
認知症のまなざしでこの社会を見ると、どう映るのだろうか。
そのことに進む前にやはり、今の新型コロナウイルスは、この社会の認知症の語り口に何をもたらしたのか、せっかくなのでこの時点でまとめておきたい。

新型コロナウイルスは、私たち誰もが感染しうるという事態をもたらした。それはこの社会の誰をも「当事者化」したとされた。
誰もが感染しうる、ということは、誰もがなりうるということで、それなら認知症もまた同じで誰もがなりうる、とすれば、これこそ認知症を「じぶんごと」として捉える好機である、と認知症の活動をしていた人々はポンと思わず膝を叩いた。私もその一人だった。

だが、一年経って見えてきたことは、それは概念だけの捉え方の提示に過ぎず、その「総当事者化」が一体何をもたらしたのかは、誰も正確に捉えはしなかった。
ただ、認知症もウイルス感染も誰もがなりうるという、思いつきのような、あるいは言いがかりのような当事者性の括りに、「ハイハイ、そうですね、だったらならないようにしっかり予防しましょう」と、あらぬ方向に迷走した。

それはそうだろう。このウイルスの事態では国を挙げて感染予防、感染対策の強化をもって押さえ込むことだけが前景化し、立ち上がりかけていたウィズコロナという共生の新たなパラダイムも、感染予防と対策の大合唱の前には色あせる様にしぼんでしまったのである。

となると、誰もがなりうる認知症も、スワ、それなら予防であると、ウイルス感染と共に「なってはならない病」の負の状況に巻き込まれかねないところだった。
だが、さすがにそうはならなかった。すでに認知症自体はそんなにヤワな社会資源ではなくなっていたのである。
そこには、2019年6月の認知症推進大綱の成立過程での「予防と共生」を巡っての広範な市民的議論をかい潜ってきた経験が、モノを言ったのだと思う。

しかしそうは言っても、このコロナの日々の中での社会総体の中の「認知症」をどう見ればいいのだろう。
「認知症とともに生きる」と言われ、「認知症フレンドリー社会」や「認知症バリアフリー社会」「希望大使」が相次いで打ち出された中で、果たして「認知症」はこの社会に定位置を占めたと言えるのだろうか。

コロナの日々に誰もが感じている深い不安、自分がどうなるのか、これがいつまで続くのか。孤立し自由を奪われた日々は人々の深層の存在不安だといわれても、地域の生活者はそんな哲学的思想に浸る余裕なく、ただ解除と自粛の繰り返しに、暮らしが揺さぶられ続けて、今現在の不安に沈み込む。

その一方で、この根深い不安というのは、かつて認知症の人々が向き合わざるを得なかった不安なのだと指摘される。診断された途端、自分がどうなっていくのか、これまでの日常がたちまち束縛に満ちてしまう経験。認知症の人々は、この事態を経験してきた先行者なのだ、と。

だが同時にこうした精緻で、それだけにどこかひ弱な理屈で積み上げた「認知症」は、コロナの日々にリアルには響かなかった。また、認知症にそのような機能を求めるべきでもなかった。
むしろ、コロナの事態の自粛の中でつながりが途切れた認知症の人々は、孤立とウイルスのリスクをしわ寄せされ、介護崩壊の危機のさなか息を潜めるしかなく、先行したはずの当事者としての発信が途絶えざるを得なかったところもあった。

コロナの日々のもたらしたものは何か。
それは単に感染拡大と感染対策とのせめぎ合いである以上に、この社会の虚相を引き剥がし、実相をあらわにしてしまったことかもしれない。これまで共生社会と言い、つながりを語り合ってきたことは幻想だったのだろうか。そうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。
この思い惑う不安定な足場をしっかりと見据えることでしか、今一度再起動させる社会は立ち上がらない。今の現実とこの先の道のりには空漠とした距離もあるのも確かだ。そのことを自分に引き受けて歩み出すことが、当事者性であり、それこそが認知症の人々の先行経験であるのだろう。

その認知症の人の確かな先行経験を受け止めることが必要だ。
それはこの事態の中でどのように揺さぶられ続けても、認知症には失われない「認知症の力」があるということだ。
認知症からこの社会を見る。そのことの先行者としてのクリスティーン・ブライデンは今のこの事態を予見したかのように2015年にこう語っている。

「私たちは病気になった人であり、その病気によって定義されます。でも、あなたの認知症の人との関わりを、認知症の経験モデルという、別のレンズを通して見てみてください。そうすれば認知症は、世界を経験する方法が変化することだとわかります。私は認知症そのものよりもずっと大きな存在です。私は人間です」(認知症とともに生きる私/クリスティーン・ブライデン 出版社:大月書店)

認知症の人は、この世界をどう見ていたのか。ここにあるのは、「認知症」は揺るぎない「人間観」へと私たちを導いていく普遍の力だということだ。

クリスティーンは、認知症は世界を経験する方法を変化させる、としている。これはこのコロナの事態にただ巻き込まれるのではなく、事態を引き受けようとする主体であることの言葉だろう。
そして、「私は人間です」と。おそらく彼女の講演では静かに、それでいてこの上なく力強く思い込めて語ったに違いない。私たちは、今の怯えと不安の世界を、「私は人間です」と宣言できる社会に組み直すことができるのだろうか。

確かに、今のこの錯綜し絡み合った現実と、この普遍の人間観としての「認知症の力」との間には、遥かな隔たりがある。しかしそこを結びつける確定の答えはない。それはそれぞれがその距離感を図りつつ、どう語るのか。どう歩み出すのか。どうつながり合うのか。はるかだけど、確かな道のりだと、私は思う。
私たちは、ウイルスの試練の負荷を担い直すようにして、ここから今一度、「認知症」を捉えなおす。

|第173回 2021.4.14|

この記事の認知症キーワード