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4年前の春、京都で認知症の国際会議があった

コラム町永 俊雄

▲2017年4月、京都で国際アルツハイマー病協会の国際会議が開催。この国に新たな「認知症」の姿を決定づけた。集う人々の表情から溢れる想いと力は、今のコロナの日々に掻き消えてしまったのだろうか。私はそうは思わない。なぜなら…

3度目の緊急事態宣言が出た。
緊急事態が出たり消えたりの出入り自由なのだとは思えないのだが、そもそも医療もケアも暮らしも命もずっと日常とはかけ離れた緊急事態の中にあった気がする。

私の部屋から見える児童公園の桜はすっかり葉が茂っている。
そういえば京都で「青もみじの京都へようこそ」と歓迎されたのはもう4年前だ。みやこびとは、秋の紅葉と並び、かえでの新緑を青もみじと呼んで古都の季節を愛でる。
その若々しい気分の中で、2017年の4月26日から京都国際会館で国際アルツハイマー病協会(ADI)国際会議が開かれたのだった。世界で最も重要で、最大規模の認知症の会議である。

このコロナの日々のどこか鬱屈する気分の中、果たして認知症はどこにいったのだろう。新時代を押し拓く力としての認知症をあなたはどこの街角で見かけましたか。
ここは一つ、大きく深呼吸するようにして、あるいは「心呼吸」するようにして、あの4年前に語り合った認知症の国際会議を振り返ってみよう。

改めて2017年の国際会議を考えると、当たり前ながらこうしたエポックには必ず底流する時代の変化がある。京都ADI、認知症の国際会議は、実は13年前にも同じ京都国際会館で開かれている。実はわたしはその二つの国際会議に参加し、2004年の京都で、NHKの川村ディレクターの番組取材でクリスティーン・ブライデンに会っている。

13年前の2004年も、認知症にとっては重要な年である。
この年、痴呆から認知症に呼称変更され、ここから「認知症を知り地域をつくる10カ年」構想がスタートする。そこから「認知症サポーター100万人キャラバン」も「認知症でもだいじょうぶまちづくりキャンペーン」などが展開された。

そして、この10カ年キャンペーンの終盤には新たな動きが芽生えていた。それは当事者発信である。編年で記せば以下のようになる。
2012年9月、私の仲間たちによる当事者研究勉強会発足。
2014年10月、日本認知症ワーキンググループ(JDWG)発足。
2014年11月、G8 認知症サミット・後継イベント開催。
2015年1月、認知症国家戦略(新オレンジプラン)策定。
どうだろうか。時代スケールの感覚では、分刻みで認知症は新たな時代の階段を駆け上ったのである。そこには様々な取り組みが相互に関連しつつ、認知症当事者という新たな姿が押し出されていった。

そうした前史を踏まえて、2017年の京都ADIが開かれた。
開会の挨拶をした当時の認知症の人と家族の会の高見国生代表はこの国際会議のテーマを「ともに新しい時代へ」と認知症の新たな時代の幕開けを宣言したのだった。
同時にこのADIは、すでに認知症とは国内問題ではなく、世界各国が「ともに新しい時代」に入っていることの確認でもあった。ともすればこれまで先進国での議論中心だった認知症は、この京都ADIでは、途上国を含む70カ国がそれぞれの認知症を議論する世界の認知症の場となった。
そう言えば、オープニングセレモニーのコーラスのセンター位置でひときわ張り切って歌っていたのは、インドネシアの認知症の人だった。

そして海外から日本の認知症を見る目は熱かった。
ADI議長のグレン・リーは、今後、日本が財源の抑制とサービスの両立をどう充実させていくのか、そして地域を生かした独自の認知症ケアの形に注目すると語った。日本の地域でのまちづくりと認知症ケアとの関連に興味があったらしい。
またADI事務局長のマーク・ウオートマンは、超高齢社会の日本が、認知症とどう取り組んできたのか、その成功と失敗の両側面を学ぶ会議だと語った。
日本の認知症の取り組みは、世界から注目されていた。

そして、もう一つの成果としては、「認知症の人権」が前面に出たことである。
中心となったのは、国際認知症連合(DAI)代表のケイト・スワッファーだった。彼女は「認知症の人の人権の尊重」をテーマとした講演、分科会を精力的にこなし、それだけではなく認知症の人がおちつける部屋や、わかりやすい表示や段差を示すテープなど、国際会館全体を認知症の人がアクセスしやすい会場にしたのである。そしてそのことを人権の視点で形にしたことが、実は鋭い意味を持つ。
今はコロナの時代で一旦休止状態の認知症バリアフリー社会は、果たしてそのような人権の視点は明確なのだろうか。

そしてなんと言っても盛り上がったのは、3日目の28日に開かれた日本認知症ワーキンググループのプログラムであった。
早くから会場が満員で、私の記憶が正しければ、会場に入りきらない参加者のため主催者が急遽、より広い会場に変更した。それでも壁際にはぎっしりと立ち見の人がぐるりと並んで、「超密」な中で当事者たち自身による分科会が始まったのである。

会場の前列にはクリスティーンとポールを始め、ジェームズ・マキロップ、ケイト・スワッファー、海外の認知症当事者たち。プログラムが始まる前から、握手にハグ、肩を叩きあっての交流が始まる。これはこのADIの他のセッションでは見られない光景だった。

コーディネーターが丹野智文さん、それに共同代表の藤田和子さん、佐藤雅彦さん、そして杉本欣哉さん、竹内裕さん、平みきさん達が並ぶ。それぞれの発言に前列の海外の当事者が微笑みながら見つめ、そして発言ごとに強く拍手する。海外の当事者はそれぞれが国際的な組織をにない実績と影響力を持つリーダーだ。しかし、ここでは水平につながる同じ仲間だった。
私は会場の人々の熱気とともにこの様子を見ながら、ここでは「思い」が確かに「力」に変換していく、その現場を目撃したという感慨でいっぱいになったことを覚えている。

長々と4年前のことを記したのは、昔話をするためではない。これは過去に埋もれたイベントではなく「現在」として時間に屹立しているようだ。コロナの日々で見えなくなっているだけで、4年前の京都で起こったことは紛れもなく「認知症の現在」なのである。

2017年の京都ADIは会期を通じて、あふれるような高揚感と連帯感に満ちた。あまりのピーク感に、この高揚の後の喪失と虚脱を真剣に心配した声もあったほどだった。
しかし実際はそうはならなかった。それはなぜか。すでに私たちは2004年以降の認知症をめぐる様々な動きをたどり、経験してきたのである。だからいきなり祝祭としての2017年のADIの花火が打ち上げられたわけではないことを知っている。

前の2003年のADIが、「何かが動いた」のであったのなら、あの2017年の京都の参加者、当事者の思いは、「何かを動かした」ということになる。

そして、今、私たちはコロナの日々の中にいる。
私たちは打ちひしがれているのだろうか。
確かにこの事態に打ちひしがれているのかもしれない。この事態に揺さぶられるようにして私たちの日常が、得体の知れないものによって「動かされている」。そしてそれはどうやら新型コロナウイルスである以上に、得体の知れないこの社会システムの不全によって、私たちは揺さぶられ、動かされている。

しかし、今一度時間を遡行して認知症が動かしてきたものを見回してみれば、まちづくりや条例づくりといった具体的な動きはもちろん、社会総体が「ともに生きる」ことへの方向性は、もはやバックステップできない地点に来ている。

思えば、かつて地域社会でひたすら隠された存在だった認知症の人たちを雪降る京の冷え込みの中、抱き抱えるようにして家族が集まり「呆け老人をかかえる家族の会」ができたのは1980年で、涙にじっとりとした長い歳月をくぐり抜け、そして呆けから認知症へ、2004年と2017年にその京都で二回のADIが開催され、その間に私たちは東日本大震災と原発事故を経験し、今度は新型コロナウイルスの荒波にさらされている。
私はそこに、時代を貫く歴史の意思といったものを感じる。

その間、「認知症」はかき消えたか。「認知症」は打ちひしがれたか。
認知症の人は、自身を認知症の経験専門家であると掲げる。打ちひしがれても、膝から崩れ落ちても、絶望の中にあっても、自分は自分の人生の主人公であるとして、その度に経験専門家たちは顔をあげてきた。
そのことを誰が引き継ぐのか。誰がコロナの社会を動かすのか。

山歩きの要諦は、険しい登り坂には歩幅を小さく刻み、足の裏全体で大地を踏みしめ、視線は足元の確かな範囲に据えて、一定のピッチで登っていくことだという。

不安に怯えるのではなく、茫然とした未来に揺さぶられるのではなく、ただ確かな現在の歩みを続け樹林帯を抜け、はるかに眺望開ける頂きを、わたしたちはひたすら目指す。

特集:町永俊雄のADIリポート

|第175回 2021.4.28|