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「認知症とともにあたりまえに生きていく」を読む

コラム町永 俊雄

▲本を読むということは自分の日常の中に置くことだ。というわけで、執筆者の葛藤する挑戦への尊意に、アンティークのカタツムリの文鎮をそっと置いてみた。他意はない。

「認知症とともにあたりまえに生きていく」という最近出版された本を読んだ。
認知症に関わる専門職たちが自身の実践を執筆し、それを編んだものだ。

執筆者のそれぞれが気鋭の認知症ケアの実践者である。副題の「支援する、されるという立場を超えた9人の実践」にそれぞれの思いが集約されて、認知症ケアの現在の到達点を刻む。そんな自負も感じ取れる副題だ。

そう、まぎれもなくここにあるのは認知症ケアの現在地としての到達点である。彼ら彼女の思いと実践をたどれば、時代を切り拓くディメンシア・ナインと名づけたくなるような意志に満ちている。
ただし、彼らの示す到達とは、直線的な成果ではない。むしろ、認知症ケアの成果に対する否認であったり、戸惑いであったり、問い直しといった錯綜が主軸になっている。そしてそれこそが、本書を斬新に特徴づけている。

彼らの記す認知症ケアは、自身の葛藤からスタートしている。
これほどまでに、葛藤や違和感、反省といった言葉を連ねながら認知症ケアを語る書は、おそらくこれまでなかったであろう。
これまでの、一部の医療者や専門職による「私はかく取り組んだ」とか「こうすればみるみる改善する」といった類書からははるかに距離をとって、彼ら誰もが自身を語ることから始めている。自分の幼少期の思い出を語る人もいれば、自分の手痛い失敗から始める医療者もいる。

編著者のひとりである東北福祉大学の矢吹知之は、「はじめに」でこう記す。
「これまでの“認知症ケア”の常識に、違和感を覚え、気づきと自己批判を経て、新たな実践を始めている私たち・・・」

ここにあるのは生産的な到達という成果ではない。自らの内奥に沈降するようにして自身のケア実践を見つめ直し、そして、深海から浮き上がり思い切り息つく磯笛のような想いの記述だ。成果と言うより思索の到達を描く。誰もが、その文章に悔恨を滲ませる。

例えば、地域で多様な活動を展開する専門職の鬼頭史樹は、ケアする、されるの非対称性は人権を奪い、命すら奪う危険性をもはらむとし、「ケアの現場で働く医療や福祉、介護の専門職は、自らが持つ権力性、暴力性に常に自覚的であること」と、自分に言い聞かすようにして警告する。

「模擬訓練」という認知症地域活動として全国に知られている大牟田市のソーシャルワーカー、猿渡進平のタイトルは、「だれのため、何のための私たちなのか」といきなり自身を斬り返している。
当初の「徘徊模擬訓練」は、地域の現実の中から生まれ、地域の変化を促したとして全国からも注目、評価された。しかし、その成果を上げた「模擬訓練」をどのように問い返していったのか、そのことの検証は、本人の声や地域住民の善意といったナイーブな心情を縫い合わせるようにしての、苦悩に満ちた実践記録となっている。

介護民族学という新鮮な視点でケアの世界を読み解いたデイサービスすまいるほーむの六車由実は、自身の直面する現実の「やりきれない思い」からの深い考察を記している。
それは認知症の人の意思決定支援の難しさである。
意思疎通が困難になった人に、これからの生活の場は施設がいいのか、自宅がいいのか、その意思決定をどう読み取ることができるのか。意思疎通が困難であるとするなら、その人の推定意志の確認ということになるのだが、それは本当にその人の意思としていいのか。

六車の抱える葛藤は、様々な具体的な局面を描き、ダイアローグの可能性を考え、あるいは哲学者、國分功一郎氏の中動態概念で理解しようと、ギリギリと自分を締め上げていく。そうしてたどりつく地点は、結論は出ないとしながら、「最後に」の章にこう記して筆を置く。

「私たちができることは、私たちを含め、本人がどんなつながりをもってきたのか・・・
想像することです。それこそが、本人と真に「対話」をすることなのではないでしょうか。選択は、本人とともにあるプロセスのなかでなされているのです」

執筆者のだれもが結語に置く言葉は、ある種の妥当なところに落とし込まれる。新奇であるより、むしろ「あたりまえ」といってもいい。
しかしそこに至るプロセスは、痛ましいほどに重ねられた自己検証だ。
ズシリとした読み応えは、「あたりまえ」のかけがえのなさへのプロセスを、所与のものとしてではなく、自分で切り拓いた道筋としているからだ。だから、読むものは本書を読み進めるほどに、幾度も行間から顔を上げて、自分の内側をのぞき込むような経験をするに違いない。そのような書である。

なぜ、本書が成立し得たのか。
それは明確である。巻頭には、認知症当事者の丹野智文と藤田和子が執筆しているからだ。
当事者のまなざしにさらされながら、認知症ケアを語る。自分に誠実であると言うことは、この場合、当事者の声に誠実であることで生まれている。

本書は、個性豊かな実践者のアンソロジーの趣もあり、そのそれぞれの異なる思索や模索をたどるという贅沢な多面性を持つが、しかし、だれにも共通しているのがそこに描かれた実に多くの高齢者、認知症の人々の風景である。
ここにあるのは、もっとも間近にもっとも真摯に「人間」に向き合った記録なのである。だれもがそれを「豊かな風景」として描く。
その豊かさに比しての自分の限界や卑小を誠実に感じ取って、この書に注ぎ込んだ。それが彼らの葛藤となっている。「成果」とするなら、私は彼らの葛藤こそを成果としたい。そしてそれは、今を生きる私たちが感じるべき感覚だろう。

新型コロナウイルスの日々は、私たちから「あたりまえに生きる」ことを収奪した。それはまた、執筆者の思いをたどれば、認知症ケアは、認知症の人々のその「あたりまえに生きる」ことを保証しているのか、奪ってはいないか、という自身とこの社会への問いかけでもある。
コロナの日々に見失った自分の思いのありかも見出せる書だ。おすすめしたい。                                         
(文中敬称略)

|第179回 2021.6.16|