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生きることを共にする ~認知症と社会と私~

コラム町永 俊雄

▲京都の正月には独特の風情がある。古都千年の歴史。現在を、今という断面ではなく、歴史の継続の中に置くようにして夕闇の街を歩く。

みなさんはどんな正月を過ごしたのだろう。
正月というのは不思議な歳時記で、なんだかんだ言っても除夜の鐘が響き、新しい年になると誰もが改まった気分になる。時間の流れの意識的な仕切り直しのようなもので、時を区切り、自分の人生を振り返り歩み出すための人智が創り出したリセットボタンだ。

第六波に突入した。
爆発する感染拡大。あけまして、と待ち構えていたのは、あまりおめでたくない事態である。この原稿がコラムとなって掲載される時にはどんな事態になっているのか、全く予断を許さない。
どうなっていくのだろう、重層する不安は大きくのしかかり、なおそこに正月という人生の踊り場のようなエアポケットに、下戸の酒のせいもあって私には似つかわしくないほどに内省的にならざるを得なかった。そんな私的心情から語り始めることをお許しいただきたい。

ある時、妻がどこかウキウキとして、ネットで調べたのだろう、私たちの結婚記念日はサファイヤ婚なのだという。おやおや、いつの間にか結婚して45年になった。
言われて茫漠とした思いになる。いつも自分を振り返る時、放送メディアでの年月を数え、そこを退いてからの時間と仕事、そして仲間とのネットワークでの活動を考えることが自分の人生であるとしてきた。が、妻にとっての45年は、専業主婦としての私の世話と三人の子育ての歳月で埋められてきたのだった。

妻は東北の地で生まれ育った純朴な気立ての娘だった。
小さな頃から学校の体育では先生の覚えがめでたく、運動会のリレーで選ばれては、長いおさげが水平になびくほどにピューっと走ることができたのだという。また歌うことも好きで合唱コンクールのメンバーに選ばれては(あの頃の学校教育というのは選抜がまかり通った時代だった)、いい成績を収め、みんなに褒められたと妻はよく懐かしんだ。

そういえば、結婚してからは家事をしながらよく歌を口ずさんでいた。会社の狭い寮の片隅で仕事の資料に目を通しながらその歌声を聴き、美しいその声に感心した甘さの中の記憶がある。
やがて子供ができ、転勤を繰り返し、不規則な仕事に何日も帰らなかったり海外派遣があったりして、そうして45年なのである。

転勤を繰り返したこともあり、彼女の暮らしはなかなか地域には根付かなかった。一度、地域のママさんコーラスに入りたいようなことをこぼしたこともあったが、私がまともに取り合わなかったせいか、彼女はそのまま諦めたようだった。

私は何者であるか。
私が今あるのは、彼女の人生を踏み台にしてきたからだ。
私が今、何かわかったようなことを発信しているとしたら、その私は、地域に澄んだ歌声を響かせたかもしれない彼女の人生を踏み台にして背伸びしてきたに過ぎない。私はそもそも発信する資格を持っているのだろうか。

それは夫婦の関係性を突き抜けて、私自身の存在の問い直しを突きつけた。
私のネットワークには、この事態でも福祉や介護の最前線で懸命な取り組みをし、発信を続けている仲間がいる。いわば「現場」を持つ人々だ。対してもはや現役を退き、そうした「現場」を持たない私の発信の場はまことにか細くなっている。逼塞するようにして、書棚の本を並べ替えたり、オーディオのサブスクリプションの音楽を流しながら本のページを括る無為の日が続いた。

私は、この事態にはなんの役にも立たないのである。前からそうだったのだろうが、そのことを改めて思い知らされることはかなりきつい。自分自身の認識でそう思うのと、社会からそのように告知される状態に身を置くのとは大きな違いがある。

私はなんの役にも立たない。言われるまでもなくその通りで、そのことの自覚はあったはずなのに、それをどこかでこの事態のせいだから、という前提を自分への言い訳にしてきただけなのである。私はなんの役にも立たない。私は何を成し得るのか。私は何者であるか。

もうすでに去年のことになるが、年の瀬に友人が連れ立って、私の仕事場まで訪ねてきてくれた。
この事態でもあるので、小人数の三人がとびきりのワインとそのワインのマリアージュのおつまみやらを抱えてやってきた。

彼ら彼女は、それぞれ放送や出版、福祉団体の主要メンバーだから語るべきことは多く、聴くべきことも多かった。
が、何よりだったのは本当に久しぶりにリアルに対面して語り合ったことだった。
ワインを注ぎながら「おお、カシスの香り」とか「ふーむ、凝縮感あるタンニンの力強さだな」とかわかったようなことを言い合う時点で、ただ無性に嬉しくなるのである。

対面して語り合うということは、発した言葉だけで語るのではない。その言葉を発する瞬間の、そのわずかな間、だとか、空に向けられたまなざし、かすかな逡巡、あるいは前のめりに重なる言葉の勢いだとかのすべてを含んでが、語り合うことなのだ。
人が人と対面して語り合うことを基本にしてこの社会が成り立っている。

ソーシャル・ディスタンスは否応なく人を人から遠ざけた。感染対策では有効ではあっても、そのことの計測不能なダメージは大きい。この社会を語るということは、人間を語ることだ。人間を自分から遠ざけて、どうやってこの社会を語ればいいのか。
友人たちとのひとときを過ごして気づいたことがある。

誰もが「私」から語ったのである。このコロナの日々を語り、読んだ本を語り、仲間の活動などなど、生真面目にしゃべり、笑い、飲み交わして、そこにはいつもそれぞれの「私」がいて「私の表情」と「私の声」で語ったのである。
「私」を語ることは、自分を開くことだ。開くことはつながることになる。

それは私自身の「役に立たない」とか「何を成し得るのか」ということがそもそも自分が自分に仕掛けた呪縛なのだった。役に立つか立たないか、何をなすかどうか、いつしか生産性、能力主義の基準で自分を縛り上げ、自分を閉じ、そのことで勝手に嘆いていた。ソーシャル・ディスタンスのようにして、私は、「私」という人間を遠ざけていたのである。

思えば、認知症の人々は、「役に立つ」とか「何かを成しうる」ことの一切を手放さざるを得なかった。そのつらさや、絶望的に困難な地点から、自己を見つめ直し、「私」という人間を再構築し、新たな人生を生き直し、その視点から自分とこの社会を見つめてきたのである。

友人、仲間と過ごすひとときが愉しさに満たされるのは、そこに流れる時間の瀬音のようにして「他者によって生かされている」という通奏低音が奏でられているからだ。
人はひとりでは生きてはいけない。役に立つかとか何ができるかではなく、むしろ弱さを公開しながら、ここにこうして在る私、今こうして生きている私を認め合うピアとケアの空間を共有しているからだ。

日本社会事業大学学長の神野直彦さんによれば、「共生」には異質な人々が「共に生きる」という捉え方と、もうひとつ、地域で人間と人間とが、さらには人間と自然とが、「生」を「共」にするという「生きることを共にする」という捉え方があるという。
神野直彦さんはこれを、思想家イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティ(自立共生)」 に引きつけて説いていて、人間の本来性を損なわずに他者や自然との関係性の中で創造性を発揮できる地域共生社会には、「共生」を「共に生きる」というより、「生きることを共にする」と位置付けることを提案している。
「生きることを共にする」、確かにここには静かな力強さがあり、根源的な「いのち」へのまなざしがあり、そしてそれぞれの「生きる」主体の輪郭が明らかだ。

私は新しい年、新しい時代、「何もできない私」から出発しなければならない。それはそのまま「他者によって生かされている」ことの確認であり、他者との「生きることを共にする」時代への創造に進むことになる。
「生きることを共にする」、そうつぶやくと、人と自然に包まれた懐かしく広々とした暮らしの風景が見えてくるようだ。

妻が、「一生に一度くらいは京都でお正月を迎えてみたいわ」と言った。
「もう年ですから、これが最後の機会かもしれないし」、冗談ぽく小さな真情を滲ませた。
結婚する時、このひとりの娘だけでも幸せにできるだろうか、おぼつかない若者だった私は、そんな風に揺れながら、45年前、ふたりの旅路に歩みだしたのだった。

生きることを共にして。

▲京の八坂の塔を望むホテルのラウンジにて。最も身近な人との旅というのは、あまり語ることもないようでいて、たくさんのことを語り合っているようでもある。

|第198回 2022.1.13|

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