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感染リスクという闇

コラム町永 俊雄

▲コロナの事態は起伏はあるもののもう2年を超えた。もはやコロナ時代である。その歪みはある時には連続事件として噴出し、より深刻には人心の深いところに荒涼を植え付けてしまうのかもしれない。

この国で新型コロナウイルスの感染症の第一例目が確認されたのは、2020年の1月15日だった。
それから2年が経った。現時点で740日を超えたのである。あるいは千日を超えるかもしれない。「かくも長き不在」という名画のタイトルが思い浮かぶ。なじみの日常、風景からすっぽりと抜け落ち「不在」となったものはなんだろう。

私はどちらかといえば地域社会を前向きに捉えていきたいと思っている。この事態でも、地域で懸命に活動を続けようとしている人々の思いを汲み上げ応援していくことで、コロナの日々の困難な時だからこそ、私たちの本来の暮らしを推し進めていきたいと思っている。

だが、恐れていたことが起きた。この社会を打ち壊すような事件が相次ぎ、正直、怯えている。どこかこの社会は壊滅的なダメージを負ってしまったという想いが拭いきれない。去年から放火を伴う無差別刺傷事件が相次いだ。

8月6日、小田急での車内無差別刺傷事件、重軽傷10人。
10月31日、京王線車内での刺傷事件、18人重軽傷。
12月17日、大阪、北新地のビルでのガソリン放火事件で、25人死亡の大惨事。
そして今年になってすぐ、1月15日、東大前で受験生ら3人が高校2年生に切りつけられる。

感染するようにして、事件は連続したのである。
事件の連続に紙面、誌面では識者による分析的な論評が載せられている。いずれの事件にも共通するのは、コピーキャット、模倣事件であることだとか、またその背景にあるのは、自殺願望、社会への他責感情、孤立などなどの類似点を挙げ、例によって決まり文句のようにして、「社会全体での取り組み」を呼びかけている。
そうなのだろう。しかし、いくらそうなのだとしても、これを特異な事件として、自分と無関係に見ることはできない。

これはこのコロナの日々の中で、いつしか抑圧の暮らしに押し潰れそうになった人心の闇がその圧力にきしみ、歪みにゆがんで、ついに噴出してしまったのではないか。
この社会に自分のいるところはなく、自己存在もろともにこの社会を抹消してやる。この狂気の暴走を、「正常な社会」の一角の「狂気の事件」として追いやることができるのか。
そもそもこの2年の歳月自体、「正常」であるのだろうか。
この社会には、感染者と感染リスクという匿名しか存在せず、私は、社会の「不在者」でしかないという感覚がどこかに潜んでいる。この連続事件に、多くの人が自分の深い部分で暗い予感を感じ取ったのではないか。ついに起きてしまったか、と。

この2年間、私たちは、ソーシャル・ディスタンス、人と人との距離を取ること、つまりは会わない、接しない、直に語り合わないと言った社会生活の放棄を励行してきた。感染リスクの対策としてはそれしかないとしたら、そのことに協力するのが、良き市民の務めであるとして。

だが、2年経って気づいた。このコロナウイルスがもたらしたものは、感染リスクだけではなかった。感染リスクとともに、実は社会のあちこちにリスクを蔓延させて行ったのである。人と会わないリスク、語り合えないリスク、飲み交わせないリスク、集えないリスク、コンサートや美術館に行けないリスク。マスクの社会からは、表情が消え、集いが消え、語りが消えた。

本当は慣れてはいけないことに、私たちは慣れてしまった。慣らされてしまった。
代わりに現れたのは、感染対策という名の、私たちのかけがえのない日常にヒタヒタと迫る権利侵害であり、またあるいは、道行く人や街角の人の、マスクのずれや賑やかなおしゃべりにけわしい視線を向ける自分である。自分がこんなに我慢しているのに、あの人は私ほど我慢していない。許せない。人々の他者を見る目が、よりよく生きることの共有から、他者への攻撃性へと下方修正されている。そうした心情が街に溢れ、懐かしい三丁目の夕日は、殺伐とした粒子の荒い風景に転じた。
いや、見渡す街の風景に変わりはない。もはやこの事態にも誰もが無感覚で、相変わらずの人出で賑わっているではないか、というかもしれない。だからこそ、私は危惧する。この社会の深層の負の蓄積は、実は将来にわたって侵食していくのではないかと。

「ジャネーの法則」というのがある。フランスの哲学者ポール・ジャネーの「主観的に感じられる時間の長さは年齢に反比例する」という仮説で、単純にいえば5歳の子供の1年間は、50歳の人の10年にあたる、というわけ。
子供たちはコロナの日々という2年間を生きてきた。それは大人の20年にあたるとしたら、彼らから最も大切な時期の膨大な時間量を奪っていることになりはしないか。
彼らの人生の最も柔らかな感性の時期は、マスクと、人との距離を置いた生活空間を生きるしかない。大きくなった時、同級の友の顔を思い出すだろうか。教師の目を盗んで、教科書の陰で隣の友とのヒソヒソ話に、クックっと笑ったことがなくていいのだろうか。

ここは子供たちの逞しい可塑性に望みをかけるしかない。周囲の大人たちは、子供達の今だけでなく、長い時間軸の子供の可能性を育んでほしい。きっと子供たちも生きづらさを感じているはずなのだ。

丹野智文さんは、新年になっても変わらず全国の認知症当事者に会いに出かけている。それはずっと以前から彼はそうしていて、このオミクロンの中でも変えることはない。
彼にはずっと変わらない信念がある。それは、「感染するかもしれないリスクと、人と会わないで閉じこもるリスクとを案分すれば、自分は人に会いにいき、語り合うことの方を選ぶ」と言うことだ。

認知症の当事者はもちろんだが、そもそも、人と会わない、会えないリスクはとてつもないダメージになりうる。
21年版の自殺白書によれば、全国の自殺者数は11年ぶりに増加に転じてしまっている。内訳では、働く女性、非正規で働く人、学生の自殺が増えている。いのちを締め出す社会になっている。

先日の、仲間とのオンラインで会った時も、丹野さんは真っ先に「当事者に会いにいくと、ほんとみんな元気になるんだよ」とそれは嬉しそうだった。
ご存知のように去年の11月に、丹野さんは顔面麻痺を患った。原因不明で治すことは難しいと、丹野さんはそのことを受け止め、変わりなく活動を続けている。
丹野さんは右側の顔面が動かない。その痛ましさは、彼が負っている、あるいは私たちが彼に負わせてしまっている責務の重さが引き起こしたものではないかと、私自身はしばしば思ったりする。彼の引き受けたリスクの重さは、誰もが分かち合うリスクとしなければならない。

あなたに会いたい。声を聞きたい。語り合いたい。
人間はひとりでは生きていけない。他者によって生かされていく。
押し寄せる感染リスクをかいくぐるようにしてでも、手放してはならない私たちの原則がある。

|第199回 2022.1.24|

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