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秋田の地域ミーティングがもたらした「成功」とは

コラム町永 俊雄

▲秋田、地域ミーティングの様子。語ることより聴くことが力となっていく現場のようだった。語るということは、聴く人がいることで励まされ、方向付けられ、見出していく。思えば認知症の当事者発信とは、そのようにして歩みだして行った。

秋田で地域ミーティングを開いた。
コロナの日々でどうしても停滞していた地域がこれからどう動くか。どうあったらいいのか。コロナに覆い隠されていた課題をどう見つめ直すか。

仲間と相談して行き着いたのは、極めてシンプルだった。地域の人々の声を聴こう。そこしかないし、そこからしかない。
コロナの日々で、見えなくなった、停滞してしまったという嘆きだけを前提にし、そのせいにして地域を新たな問題化としているのではないか、そんなことを言い合って秋田に向かったのだった。

地域ミーティングは、例年開催しているNHK「認知症とともに生きるまち大賞」の関連企画としてNHK厚生文化事業団、秋田県社会福祉協議会、そしてNHK秋田放送局が共催し、その新機軸の取り組みとして7月13日に、秋田県社会福祉会館で開催されたものだ。
地域の暮らしと福祉に責務を持つ三つの団体がともに主催者であるということにも、地域への熱い思いを、どう現実に結びつけていけばいいのかという問題意識の共有がある。

秋田県は全国一の高齢化県である。2021年の高齢化率は38.5%、郡部には50%を超える地域も並ぶ。加えて人口の減少、豪雪地帯という課題先進県でもある。
しかし、こうした発想自体に落とし穴がある。地域というとすぐ、課題、問題に目が向いてしまうが、そのせいでそこに暮らす人々が日常抱いている思いへの関心がなおざりになってしまっていないか。
そしてこれは、実はこのコロナの日々のこの社会の対応と構造が全く同じだ。感染対策という大問題がとにかく目の前にドーンとあって、そこに目がくらんでその向こうの地域で暮らす人々の小さな、そして切ない思いをなぎ倒すようにして3年が過ぎようとしてきたのである。

地域ミーティング自体の構成もまたシンプルだ。
まずは、認知症をめぐってのこの社会の全体像を私が基調講演として提起し、それを受ける形で聴衆が秋田という地域での取り組みや課題を語り合うというものである。

ガチャガチャガチャ、講演が終わるとそれまで講演を聞いていた聴衆が、今度はパイプ椅子を動かし、折り畳みの長机を寄せ合って秋田県社会福祉会館のホールいっぱいに6つのグループができた。そのグループごとに初めて会う人同士がそれぞれ顔を合わせ、そうして話し合いが始まる。講演の聴衆が、今度はそのままミーティング参加者になって語る側になっていく。聴く人は語る人なのである。
誰もがワクワクしているように見えるのは、語る人になるという参加感と、地域へ関わることへの高揚なのかもしれない。

「地域ミーティング」、その話し合いは盛り上がった。知らないもの同士、初めは遠慮しあってぎこちない話し合いになるかもしれない。東北の人は寡黙だし・・・ といったコチラの勝手な先入観は見事に覆された。コロナの日々もあってか、堰を切ったようにどのグループでも話し合いは活発だった。

6つのグループを巡るようにしてその話し合いを聞き、ときに加わりながら、私はその話し合いの盛り上がりといった表層を超えて、その話し合いの中身にただ引き寄せられた。

年若い女性は、「私はこれまでやはり認知症にはなりたくなくて、予防にとても関心があった。でも今日の講演を聞いて別の考えも生まれてきたような気がする」と語り、周囲にはやさしくうなずく人もいて「私もできればなりたくないと思っていますよ。でも、本当のところ、なぜ自分はなりたくないのか、そこを考えたりもするようになりました」と応じる男性がいる。
また別のグループでは、家族に認知症の人がいる女性が、「今も認知症の家族がいることを近所に話すことはできない。恥だと思ってしまう」と語り、重い沈黙がグループを包む片隅で、小さく共感を寄せるまなざしも交わされるのである。

話し合いには、とりあえず、「認知症とともに生きる社会」への課題は何か。そしてそのために自分にできることは何か、といった項目を設定しておいた。しかし、何を語ってもいいのである。話し合いは、過剰でもなく前のめりでもなく、自然に自分それぞれの思いを語り合う場になっていった。
もちろん、大きな枠組みの共生社会への理解を深めることの必要を説く人もいて、その後に申し訳なさそうに、「みなさん、地域というけれど、どうも私にはちっとも地域が見えてこないのですが・・」と語る人がいる。

話し合いは調和的に積み重なるわけでもなく、ジグザクであったり食い違ったり、別の話に飛んだりして、取り留めないと言えば取り留めないが、沈黙を挟んでも、しかし不思議に途切れない。
両手でガーゼのハンカチをクシャクシャにしながら老婦人が、「あの、声をかけてみてはどうかしら。朝会ったときにね、私はご近所に必ずおはようと声をかけるようにしてますよ。ずいぶん安心しますよ」

すごいなあ。すごい。ただそんな言葉しか思い浮かばず、各グループを回って歩いた。
誰もが、語ることを持っていて、それを自分の言葉で語り、他の人の言葉を自分の中に響かせているのである。

これまでともすればメディアの側からの地域シンポジウムやフォーラムというのは、どうしても送り出す側からの課題設定とそのソリューションの提供だった。そこにはあらかじめのメディアの側の価値観が仕組まれている。

そうではなく、地域のリアルな声から無条件に組み上げていくと、全く違った姿の地域社会が見えてくる。そこでの語りは否定されることなく、なぜそう語るのか、語られねばならないのか、といったところに誰もが思いを届かせているようである。こちらがドキリとするような偏見や差別につながりそうな言葉さえも語られたりする。それらは誰もがその背景を共有している中での発言として、うなずかれたり、あるいは別の人の語りによって穏やかな修正がされたりする。

そうか、ここで生まれているのは、語ることはもちろんだが、誰もが自分とは違った声を聞くことから始まる対話の場なのであった。異論をたどりながら、自論を見つけている。
つまりは、LED照明の会議室に棲息する都会人は、このプロセスをスキップした地点から共生を語っている。言葉が生まれる以前の、地域の未生の思いを拾って自分の言説を形成することはない。

秋田での「地域ミーティング」は成功したか。
さて、その成功をどう見ればいいのか。この場合の成功というのはどういうことだろう。そもそも常にそうした成果主義の中で、答えを出すことが成功なのだろうか。

その意味では、見方によればまとまりのない話し合いだったと言えるのかもしれない。
しかし、誰もが居ていい場所の中で、なにを言っても聴いてくれる人がいる中で、自分の思いを発信したのである。誰もがおぼろに、地域の「当事者」の自分に向かって歩み出したのかもしれない。
直ちに答えや成功を求めないというこのミーティングを「成功」とする視点こそが、今必要とされているのではないだろうか。私はそう思う。

終わって何人もの人が私のところにやってきて感想を述べた。
ある女性は、「もっと語り合いたかった。時間がないなら、朝から一日中、ずっとやればいい」
ある男性は、「みんな初めて会う人なのに、こんなふうに色々と話し合えるのは、これって認知症の力ですよね」

私とは言えば、三々五々、晴れ晴れと会場を後にする参加者を見送りながら、
「なんだ、これまでメディアはちっとも地域に働きかけてなんかいなかったのだ」と打ちひしがれるような思いにかられた。しかしそれは一種、爽快なまでの打ちひしがれ方だったのである。

できれば、この地域ミーティング、全国各地で開催したい。

|第217回 2022.7.27|

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