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デンジャーとリスク、コロナとの共生を考える

コラム町永 俊雄

▲世界遺産、ひだ白川郷の合掌造り集落に行ってきた。合掌造り。祈りの造形。それぞれの建築には釘一本使わず、全て縄で結い上げている。「結い」の村である。つながりの村なのである。それぞれの知識が知恵となって時空を超えてつながるのが「結い」という共生。

この稿を記している時点では、新型コロナウイルスの爆発的な第7波が続いていて、この先どうなるのか誰にも確かなことは言えない。
ただ、コロナの日々の2年半余りを振り返ると、ほぼ確実に言えるのは、私たちのこれからの日常はウイズコロナの世界なのだということだ。

これまでもこの「ウイズコロナ」という言葉は繰り返し言われてきた。しかし、この言葉が世間に浮上してくるのは、決まって感染が収束の気配を見せる時期と同期している。

収まればウイズコロナで、感染拡大なら行動制限を押し出し、ウイズコロナは引っ込める。この言葉はそんなふうに出し入れ自由に便利に使われてきたのだが、それでいいのだろうか。
ウイルス学的には、私たち現生人類誕生のはるか以前から、この惑星にウイルスは存在していたわけだし、私たちはその宿主(ホスト)として、長い長いお付き合いなのである。

その長い付き合いに免じて、「ウイルスの皆さん、ひとつこの辺で手を打ってもらおうじゃないの」というメンタリティが人類の側にあるのかもしれないが、それほど、新型コロナウイルスの方は友好的ではない。

感染状況のいかんに関わらず、私たちの住む世界はウイズウイルスであり、ウイズコロナであると覚悟するところから、感染対策も日常も組み立て直したほうが、よほどスッキリする。
そもそも、ウイズコロナとは私たちの共生モデルの原型でもある。異質な存在との共生がウイズコロナなのであり、同時にそれは私たちの共生社会の弱点と痛点のありかを指し示した。

それは「共に生きる」というモデルでは、相手を選り好みはできないということである。共に生きる社会には賛成だが、コロナと共に生きることには反対する、というわけには残念ながらいかないのである。ここに見えることは、「共に生きる」とは、ただ仲良くなることではなく、異質の存在や多様な価値観とどう付き合うのかという相互の存在承認から始まるということだ。このウイルスは、ご丁寧にもそうした共生社会の本質をじっくりと教えてくれたのかもしれない。

新型コロナウイルスには「新しい生活様式」としてさまざまな感染対策が列挙されるが、それをウイズコロナという共生モデルとして捉え直すと、マスク、手洗い、密の回避といったそれぞれの感染「対策」が、言われてやらされる対策ではなく、一人ひとりの「共生」手段としても納得感がある行動として生まれ変わる。自分ごとへと引き受けることができる。

だから、ウイズコロナをひとつの共生モデルとしてみると、新たな言葉に出会うことになる。
パンデミックは世界的な危機である。
その危機には二つの言葉が当てられる。デンジャー(danger)とリスク(risk)である。デンジャーとリスクは同じ危機、危険であってもその意味するところはかなり違う。
デンジャーとは、例えば地雷原の手前の看板に、ドクロと骨のぶっ違いの図柄と共に記される警告である。「危険!立ち入り禁止」がデンジャーで、それは避けるしかない事態を示す。

対して、リスクというのは同じ危険でも私たちの対応可能な事態である。リスクは分かち合うことができるからだ。一人で抱えるには重すぎるリスクでも、リスクを分かち合うことで、自分のリスクを減らすことにもつながり、同時に今後の未知のリスクにも備えることができる。そもそも福祉の原風景とは、リスクの分かち合いであり、それぞれの痛みの引き受けだった。それがデンジャーとは決定的に違うところだ。

ところが、これまでの濃厚な感染対策には、どこかこのコロナの事態を「デンジャー」として捉えてきたところがある。「危険!ちかづくな」と。
そのことが当初の感染者への排斥や差別、中傷にもつながった。感染者数という不可視化された数値は、ドクロの立て看板を社会のあちこちに立て、怯えを煽ったようなものだった。
この新型コロナウイルスとは、人類とウイルスの長きにわたっての共生関係に伴う「リスク」なのである。殲滅はできないが、リスクとして対応可能なのである。

それを私たちはデンジャーとしてのみ捉え、その前に立ちすくんで右往左往してきたのではないか。が、さすがにここに至って「デンジャー」としての「感染」を、誰もが「リスク」として捉え直してきたように思う。
それは一つには、皮肉のようではあるが、この感染の拡大である。かつてのどこかの誰かというデータ上の感染者が、身近な誰かになり、自分になり、さらには家族の誰かになった時、その人をデンジャーとして排斥することはできなくなったのである。匿名の感染者から、顔も名前もある人間として見えてきたことが大きい。

もうひとつには、この歳月で曲がりなりにも誰もがコロナの日々でこのウイルスについて学んだからである。もちろんウイルスをめぐる情報の錯綜はあっても、そこから少しずつリテラシーを学び取って、新型コロナウイルスへの知識と理解が進んできたことが、自分自身のリスクと、社会のデンジャーとの仕分けを明確にした。正しく知って、正しく怖れるとは、こうしたことだろう。

何より、このコロナの日々で、私たちは自分自身のリスクの自覚を得たのである。誰もが感染しうるというリスクをそれぞれが引き受けるという当事者性に目覚めざるを得なかった。
その当事者としての視点から見れば、私はこのコラムでも度々言及してきたが、このコロナの日々の感覚は、どこかこれまでの認知症の人々がたどった道筋と重なるのである。

もちろん、新型コロナウイルスと認知症とは事態も疾患としても全く違っているから、同じ文脈に置くのは語弊を招きかねないが、しかし、かつて痴呆として地域社会に見えない存在だった人々が、やがて世間に認知症理解と知識とが普及し、さらには顔も名前もある当事者発信への歩みなどは、そのプロセスをギュッと凝縮すれば、このコロナの日々のわたしたちの日常体験にも重なるのである。
歴史の中の見えない存在だったデンジャーとしての認知症が、今、分かち合うリスクとして、この社会の共生理念の核になっている。「認知症と共に生きる」とはそういう認知症を超えた普遍の力を帯びている。

これからもこの新型コロナウイルスはどのように変異し、どのような事態をもたらすのか予断を許さない。しかし、わたしたちも変化した。それはこの社会にはリスクはつきものであるということだ。生きることはリスクと共に生きることなのである。ウイズコロナは、私たちのウイズリスクの社会と重なっている。
ゼロコロナやゼロリスクを目指すのではなく、そして、リスクを押し付け合うのではなく分かち合う社会へどう進むか。

共生社会の入り口とは、ウイズコロナの中で見出したリスクと共にある自分自身の発見と、その自分との共生なのかもしれない。

|第218回 2022.8.8|

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