▲「ともに生きる社会」といっても、ただ「つながりましょう」と連呼していれば実現するわけもない。足元を見つめ、彼方に学ぶ、そんな視点も必要だろう。島根の宍道湖を巡りながら、そんなことを考えた。
島根県松江に行ってきた。
出雲空港から松江市内までは、出雲市と松江市にまたがる宍道湖を巡るようにして車で30分ほどかかる。
空港からタクシーに乗ると運転手さんが、「どうしますか。高速で行きますかね」と尋ねる。いつものように時間に追われている感覚につい「高速で」と答えようとして、そうだ、久しぶりの松江だし講演は翌日なので「すみません、宍道湖畔の道で行ってもらえますか」と聞いたら、「いいですよ。たいして距離に違いないから」と言ってくれた。
おかげで視界の横に広がる宍道湖を絶えず眺めながらの至福のドライブで松江に向かった。
運転手さんは道すがら、気さくにあれこれ説明してくれた。私が宍道湖の広々とした風景に「いいなあ、いいですねえ」を連発したものだから、「お客さん、内緒で言いますがね、高速で行くと山の中ばかりで、この風景は見られなかったですよ。料金は少しばかり高くなって時間もかからないから、私らは高速の方が本当はありがたいんですがね」とにこやかに話す。
松江は、ヒトの「あたり」がやわらかい。
松江の県民福祉大会での講演は、認知症基本法を手掛かりに、「認知症とともに生きるまちづくり」というテーマだった。
今、地域での私の講演には「自分らしく暮らす」と「地域」といったテーマが目立ってきている。そこには「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」の施行がエポックになっているのだろう。認知症基本法の存在が、地域の底深いところを動かしているのかもしれない。
地域社会で、「自分らしく」や「地域福祉」が合言葉のようにして交わされているのは、この閉塞の社会に、地域に暮らす一人ひとりが地域のつくり手であり、そこから地域共生を主体として引き受け、捉え直そうという静かな機運につながっているような気がする。
ただこの「自分らしく」にしても、地域福祉の眼目である「ともに生きる」にしても、言葉自体が誰もが馴染みすぎ、頭の中を素通りしてしまう言葉である。そのことを暮らしやまちといった具体にどう重ねていくのか、ここが難しい。
福祉の言葉というのは、「自分らしく」も「ともに生きる」も、大切な言葉であるがゆえに美しく軽やかな音韻を持ち、思い惑う暮らしの実感からふわりと浮遊してしまう。
そこを繋ぎ止める万能接着剤が、「自分ごと」である。
この地域社会を、自分という主体が引き受ける、つまりは「自分ごと」とする。
では認知症を「自分ごと」として語るとはどういうことか。
新たな扉を開けると、新たな難題が目の前に立ち塞がる。いかにこれまで福祉を「誰かがやってくれること」として他者性に押し付けてきてしまったのかと思い知らされる。少子超高齢社会とは、「やってくれる誰かがいない社会」なのである。
このままでは県民福祉大会の会場「くにびきメッセ」の満員の聴衆の前で立ち往生するであろう。
その時、ふと気づいた。
私が島根の地に降り立ったのは出雲空港である。空港の愛称が「出雲縁結び空港」だ。
いうまでもなく出雲は神話の国、出雲大社が縁結びの神様であることからこう名付けられた。
そうだ、縁結びだ。「縁」を語ろう。
自分ごととは、ひとりでは成り立たない。誰かと誰かを結びつける縁結びは古代からの共同体が生んだ叡智なのだ。
縁、ご縁といい、ゆかり、えにしとも読み、人と人をつないで私たちの地域や暮らしや人生は豊かに息づく。「ご縁」は抽象の言葉ではない。縁側や縁台という暮らしをつくる装置もまた「縁」をむすぶ力を発揮する。
「縁側」という外と接する廊下、テラスのようなしつらえは、我が家という私空間と、まちの通りや路地という公共空間との境界に作られる。それは、フォーマルとインフォーマルをつなぐ中間空間「つながりの場」で、立ち寄っても家の中まで入らずに縁側であれこれの世間話に花が咲く。その気やすさの共有が地域を育てていく。
そして、通りに置かれた「縁台」には、通りかかる誰もが腰掛け夕涼みをし、路地で遊ぶ子供を見守ったり、将棋や碁を打ったり出来る安心と安全の街角のコモンズなのである。
日常にいくつもの「縁」が連なって、私たちの地域社会を満たしていく。
「ご縁」とは、私たちは一人では生きてはいけない、先祖からのつながり、家族友人とのつながり、ふるさとのつながりがあって初めて「生かされている」私がいる。「ご縁」はその確認のためにある。そのような共同体の伝承を、出雲の古代からの人々は神々の縁結び神話になぞらえるようにして語り継いできたのである。
いまその縁結びが、世界的にも注目を浴びている。
「縁結び」は、「ソーシャル・キャピタル」という概念として世界的に注目されてきている。
「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」は、アメリカの政治学者、ロバート・パットナムの提唱によって脚光を浴びた。
この社会の構成要素としては、「物的資本(Physical Capital 企業などの保有資産)」や「人的資本(Human Capital 教育や人材、労働力)」が言われていたが、実はこの社会が活性化、機能するためには、「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本:人と人とのつながり)」が重要であるとされているのだ。
ソーシャル・キャピタルにはまだ定訳はなく、社会資本とすると道路、港湾などのインフラと混同されやすいので、ここでは「社会関係資本」としておく。
では、社会関係が資本であるということはどういうことか。
それがまさに「縁結び」なのである。人と人の関係性が社会を作る。
パットナムの一連の研究で注目を集めたひとつに1993年に出した「哲学する民主主義:Making Democracy Work」がある。
この書で、パットナムは「人々のつながり、関係性といったソーシャル・キャピタルが豊かであれば、人々は互いに信用し自発的に協力し合い、民主主義を機能させる」としたのである。
今からすればかなり楽天的な考察と感じるところも多いのだが、しかし「人と人との関係性、つながり」といった概念をもって民主主義の本質に迫ろうとする視点は、この国の福祉が今なお思いやりや善意の発動でしか語れないのと比較すれば、一線を画していると言えるのではないか。
政治哲学に「集合行為のジレンマ」という命題があって、それは、
「グループの各人に、協力するかしないかの選択肢がある場合に、個人にとっては協力するよりしないほうが個人の得にはなるが、かといって全員が協力しないと、全員にとって不利な結果が生まれる。
逆に全員が自分にとって多少不利であっても協力すれば、グループ全員にとってより望ましい結果になる」
これが「集合行為のジレンマ」というもので、例えば低い投票率などがその実例とされる。
自分ひとりくらい投票しなくても大勢に変わりはないと、棄権して自分の時間を楽しむのはその人の得かもしれないが、自分ひとりくらいと、全員が棄権した場合には民主主義は瓦解する。全員の不利になるのである。
逆に全員が、自分の時間と手間をかけても投票に行けば、少なくとも政治にはもっと民意が反映されるのは当然であろう。
「集合行為のジレンマ」は、公共政策の課題とされ、その解決策としてソーシャル・キャピタルが提示される。
もちろん、ソーシャル・キャピタルにも課題は多い。
その機能部分だけの強化は、結果として人々の結合のみが目的化し、党派性を生んでその主流の人々が、そうでない人々への排他性を内在させる危険性が警告されている。
結合を強めるより、橋渡し型と言われる水平のネットワークのソーシャル・キャピタルは、例えばアメリカのシリコンバレーのように、ベンチャー企業間の協力で情報の共有化を促進し、信頼の増大をもたらし、結果、あの奇跡的な技術革新につながったとされている。
ここには従来の企業のような上司から部下への指示系統といった垂直のネットワークではなく、ベンチャーならではの自由で水平なソーシャル・キャピタルが機能した好例とされる。
さて、ここまで私たちの風土の中の「縁結び」から、社会科学的な視点でのパットナムのソーシャル・キャビタルの概略を辿ってきた。
私たちが暮らしの中で何気なく言い交わす「これも何かのご縁ですから」には、ソーシャル・キャピタルの「信頼・規範・互酬性」の全てが込められている。
私たちのまちづくりといった取り組みは、実は先行しているソーシャル・キャピタルといった概念自体をすでに経験知として獲得している。縛りの軽い水平でゆるやかなネットワークの方が暮らしの安心につながることはすでに地域社会に根付いている。
そして、実は「縁結び」にはソーシャル・キャピタルにはない、より深く確かなところがある。
それは神話とのつながりに象徴されるように、私たちの「縁結び」という言葉に託す「つながり」は、水平のネットワークといった単線ではなく、時空を超えてはるかな先人たちの想いを今につなぎ、それはそのまま、次のまだ見ぬ生命に手渡すという、時制を行き来する縦横なネットワークを持っている。
「ご縁」というのは、共生社会の豊かなネットワークなのである。
来月の今頃は出雲では神在月(かみありづき)で、全国から神々が出雲に集まり、縁結び会議が開かれるという。共生社会のご縁もおはかりいただきたいものである。
参考:ロバート・D・パットナム「哲学する民主主義(NTT出版 2001)」
|第295回 2024.10.8|