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認知症の希望をどう語るか 〜認知症当事者勉強会の報告から〜

コラム町永 俊雄

▲10月26日に三鷹で開かれた「認知症当事者勉強会」。上段は、報告者の川村雄次氏と山中しのぶさん。下段は会場参加者とその話し合いの様子。実はここが認知症時代の発信地なのである。

小学校の書き初めのお題はいつも「希望」とか「大志」だった。
へそ曲がりの小学生だった私は、「希望」とか「大志」というお題にどこか馴染めなかったような気がする。「ケッ、なにが大志だ、余計なお世話だぜ」と言うほどにスレてはいなかったような気がするが(見解は分かれる)、書かされる「希望」は他人事だった。

やがて書道の指導教師が代わって、父母の話だと、書道家を目指すヘンテコな指導者と見られていた若い先生が来た。習字の時、私がそれまでの指導通り、「ハイハイ、とめ、はね、はらい、に気をつけてでしょ。ハイハイ」と「希望」を書きあげると、その若いヘンテコな先生は私のところに回ってきて、「上手いね」と褒めた。ふふ、けっこうわかってるじゃないか、と私。

「でもね、それじゃダメなんだよ。自分で自分の「希望」を書いてごらん。半紙から飛び出すように書くといい」
それだけ言うと他の児童の指導に移っていった。なんなんだよ。半紙から飛び出していいのか。

卒業する頃、その先生の書の個展があって表具師の父と見にいった。
なんと先生は、前衛書道家なのだった。大きく紙面いっぱいに墨滴が飛び散り広がり踊るような文字でも絵でもない作品だった。
今でも先生のことは思い出す。希望は半紙を飛び出せ。その言葉は、その後も私の折々によみがえった。

「希望を語りたい」とカワムラが言った。
先日三鷹で開かれた私たちの「認知症当事者勉強会」のテーマである。

認知症診断後の「希望」とは?
〜認知症取材24年、そしてこれから〜

これが勉強会のタイトルで、報告者がNHKディレクターで、24年にわたって「認知症」をテーマとして伝えてきた川村雄次さんなのである。これまでこの認知症当事者勉強会の世話人で運営を担ってきた川村さんが今度は、自身の24年の認知症との関わりを語るとした。

川村さんは、この24年の俯瞰を現時点から語り始めた。今年認知症基本法が施行された。
その基本理念には、「認知症の人が尊厳を保持しつつ、希望を持って暮らすことができるよう・・」と掲げられている。ではその希望とは何か。川村さんはそのようにいきなり24年を背負いながら、斧を振るうように問いかけたのである。

認知症診断後の希望とは何か。
この社会の、認知症への希望とは「ならないこと」とする予防か、「治すこと、治ること」という治療にしかないのではないか。それ以外の希望はあるのか。あるとすれば何か。それを語り合いたい。川村さんの語りの始まりはそこだった。

希望は、半紙を飛び出した。
認知症の希望とは何か。それは丹野智文さんたち当事者の言う「生き生きと自分らしく笑顔で過ごす」や「自分らしく、自分で決める暮らし」に寄りかかって心地よくなっている私たちの深層をえぐる問いかけだった。

この社会の本音は、認知症に「ならないこと」「治す」ことしか希望としていない。そうではないのか。
しかし、川村さんこそ多くの番組を通して、「ともに生きる」認知症当事者の希望を生み出したのではないか。問いかけに対する会場の問い直しを受け止めるようにして彼の24年間の認知症史が開幕する。

あるいはご存知の方もいると思うが、実は川村雄次さんと私とは、メディアで認知症というテーマに関しては長く共に関わってきた。なので、彼の報告に対しても仲間内の評価とされるのを回避すべく抑制的に記述せざるを得ない。
しかしそのことを踏まえても、彼の報告は、基本法を生み出した今年という時代の必然に置かれ、時代性を大きく括り上げるような意味合いを持つ。認知症のこれまでとこれからの結節点のエポック(画期的出来事)と言ってもいい。

彼の報告の詳細をトレースする紙幅はないが、24年前の2000年を認知症のターニングポイントとし、その年介護保険ができ、そして抗認知症薬の登場を冒頭に置き、そこから彼の取材ノートを捲るようにして、時系列に報告が続く。
クリスティーン・ブライデンとの劇的な邂逅も当然語られ、メディアの中の認知症の伝え方の変遷を示し、やがてこの国の当事者発信とワーキンググループの誕生や丹野智文さんのスコットランド紀行などの報告がある。

この認知症勉強会に関わる人々には、こうした出来事や登場人物は既知のことだろう。しかし、そのそれぞれを時代の断片とするのではなく、この報告はそのそれぞれをその背景、社会の受け止め、さらには川村雄次さん自身のその時の思いでもって丹念につなげていく。
むしろ、そうした人々の感情を接着剤として24年をうねるようにしてつないでいくと、そこに浮かび上がるのは、私たちの知らなかったこの社会の風景なのである。私たちは今、どこにいるのか、それを示した。
私たちはどのような時代に生き、どのような社会を作ってきたのかが、認知症を通して見ることでくっきりとした輪郭をもって浮かび上がる。

よく知られた精神科医の小澤勲さんが、2003年にクリスティーンの著の解説に寄せた文章が、報告スライドに映写される。

「認知症を病むということが、人の手を借りて生きざるを得ないということであるとすれば、希望は人とのつながりに求められねばならない。希望に誘うその手は優しさに加えて、認知症を病むことの困難を知り尽くしていなければならない」

改めて記せば、これは2003年の小澤勲医師の言葉である。20年前にすでに、認知症の「希望」の本質と警句が発せられていたのだ。
「希望に誘うその手は優しさに加えて認知症を病むことの困難を知り尽くしていなければならない」。
20年前に認知症の人の側に立って、その困難を思え。さもなくば、希望に誘うことはできないと小澤医師は今の私たちを見透かすように語っていた。
私たちは、希望を語るときには認知症を病むことの困難を棚上げし、困難を語るときには希望を吹き消し、ただ認知症の希望を「ならないこと」と「治す」ことにしか置いていないのではないか。「希望に誘うその手」は俗にまみれ、さしのべられることはない、そのような小澤先生の叱咤が聞こえる。

この報告では、希望と対置するようにして、認知症の人の困難として「進行」を話し合いのポイントとしていた。
そして、川村報告者の隣には高知から来た認知症当事者、山中しのぶさんが共に報告者として席についている。
山中しのぶさんは、実は自身の「進行」は深刻度を徐々に増しているが、公に語ることはないとした。「認知症ではない人から、あなたの「進行」を聞かれるのはイヤではないのか」と隣の川村さんが尋ねた。
「人によります」と山中さんは答えた。

24年を辿るということは、単なる編年ではない。ここにもう一度、小澤先生の言葉を響かせよう。
「希望は人とのつながりに求められねばならない」

私たちは、困難と希望を別物、あるいは対立概念とするが、小澤先生は認知症の人の困難を知り尽くすことによって、困難を我がことに引き受け、分かち、そこから他者への「希望に誘う優しい手」を持つことができるとしたのだ。希望は絶望に寄り添う。

山中さんは、進行という自身の困難を分かち合えるとするなら、それは「人によります」と語った。山中しのぶさんは、希望を、自身の困難を知る人とのつながりに求めたのである。

もう一点、この報告を際立たせものがある。
報告者の川村雄次さんは、自分を語ったのである。認知症を真摯に引き受け、認知症に接した時の自分の戸惑いや疑問や思い違い、誤謬までも目線低く率直に語り、それはそのまま自己検証となり、新たな自分の発見や知見を重ねてきた。報告全体が自分史でもあった。
ここにあるのは、「私」の物語なのである。「私」が認知症を通して、どのように「私」を見出していったのかの旅路と言ってもいい。

だからこの報告総体のメッセージは、誰もが「私」の認知症の物語を語ることを求めているように思える。多様な「私」の物語が、やがて「私たち」の、「社会の物語」に流れ込んでいく。
「私」の物語を「私たち」の物語として編み上げる。それが認知症基本法の共生社会の実現の推進ということにならないだろうか。
希望とするなら、「私」を「私たち」にしていくそのプロセスこそを希望としたい。

希望は、希望と名づけないところに棲みつく。
作家の大江健三郎は自身の老いに向き合いながら、遺す言葉のようにして若い世代に長詩を綴った。それはまるで、今回の勉強会での話し合いを聞いた作家の、「希望に誘うその手」の優しいぬくもりのようである。

小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし、
私らは生き直すことができる。
  
  大江健三郎・晩年様式集(イン・レイトスタイル)

|第297回 2024.10.29|

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