▲師走はまたクリスマスシーズン。今年の贈り物のひとつには「認知症基本法」がある。高揚の気分で受け取って見たものの、開けてみてどうしようと思っている人も多い。こんなふうに読み取ってみてはどうだろう。
このところやたら忙しかったのが一息ついて、すっかりご無沙汰していたスポーツジムに行く。
うーむ、体がなまっている。というか、運動不足というより加齢現象に過ぎないのかも知れない。
馴染のインストラクターがやってきて、「おやまあ、久しぶりですねえ。ずいぶん顔見ないからやっぱもう、あちらに旅立ったのかと思ってました」、とんでもないやつである。マ、そういう軽口交わして互いの息が合っているところがある。
以前もこのインストラクターから、私がマシンに取り組んでいると、「あなたはマシンワークしながら、なんとかラクしようと思っていますねえ。ジムに来てラクしようと思っているのはあなたぐらいですよ」と言われた。
ジムでのマシントレーニングというのは、筋力に負荷をかけることで体力維持や増強になる。バーベルをウ〜ムッと持ちあげたりする、あれですね(そんな大仰なのは、私はしないが)。それを手抜きしたのではなんにもならないのである。ごもっともである。
だが今、この社会では手抜きできないフェイズに入っている。「自分ごと」としての社会になるか。手抜きできない「自分ごと」の時代だ。
今年も師走に入った。今年を特色づけるとしたらやはり認知症基本法だろう。
認知症基本法が成立して1年半、施行されてから1年が経とうとしている。
その間、あちこちでこの認知症基本法の話をしてほしいと言われて、各地で自治体や主催者、専門職の人と話し合うと、どうもこの認知症基本法を意識しつつも、でもそのことがどう地域に関わるのかで、どこか持て余しているようである。
たしかにこの認知症基本法が成立した当初、あちこちで基本法を巡っての会合が持たれたが、私がまずいなあと思うのは、そのことごとくがいわゆる専門家たちの、この基本法の条文解釈や、意味合いや役割と言った観念の堂々巡りで、この認知症基本法の「推進」主体である一般の人々の生活感覚に届く語り口を持たなかったことである。
私はこの認知症基本法というのは、広く捉えれば、私たち一般の日常生活に関わるいわゆる「市民法」であると思っている。認知症基本法は暮らしの中に置かれることで初めて機能する。条文の講義から暮らしに届くことはない。
認知症基本法には「共生社会の実現を推進するための」という前句がつく。
これを単なる修飾句と思っていやしないだろうか。
認知症基本法は、「共生社会の実現を推進するための」が前段に置かれて初めて正式の法律名となる。アナグラム風に読み取れば、「認知症は、共生社会を実現する」ということになる。
ではなぜ、「認知症」は、「共生社会を実現する」のか。
ではなぜわざわざ「推進」という単語がついているのか。
ここは「推進」の二文字を抜いて、「共生社会を実現するための認知法基本法」のほうがスッキリするのではないか。
次には、誰もがこの基本法に、「基本的人権」が記されたことが画期的であるという。そう言われるとそんな気もするが、ではどこが画期的なのか。基本的人権が記されていることはこれまでとどう違うのか、何をもたらすのか、どう説明できるのだろうか。
更には、この基本法の第一条、目的という項目に、この法律はなぜ作られたのかが宣言されていて、それは、「認知症の人が尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすことができるよう」にするためだとしている。つまり、「尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすことができる」社会にするということだ。
いきなりそう言われてもなあ、そう思うのはごく当たり前の感覚だ。
なぜ、このことが目的とされているのだろう。その背景には何があるのだろう。
こんなふうにあれこれ考えをひねっていると、ここにある「基本的人権」と「共生社会」というのが、どうやら「認知症」とどこかでつながるように見えては来ないだろうか。
「自分ごと」としてこの社会を考えるということは、上に記した疑問文に自分なりに考えることだ。正解を出そうなどと思わないほうがいい。誰かと違ってもいい。自分の考えをたどる。どのように考えてもそれが「自分ごと」であれば大切にしたほうがいい。
考えるポイントは4つ、改めて挙げておこう。
なぜ、「認知症」と「共生社会の実現」が並ぶのか。「認知症」を考えることは、共生社会を実現するのか。
なぜ、わざわざ「推進」なんてついているのか。
なぜ、「基本的人権」と記されているのか。そもそも「基本的人権」ってどういうことなのだろう。
なぜ、「認知症の人が尊厳を保持しつつ希望を持って暮らす」ようにすると記されているのか。そしてそれはどんな社会なのだろう。
認知症基本法を考えるとは、要するに以上の4つの「なぜ」に対して「自分ごと」として考えれば、それだけで認知症基本法のほとんどすべてを考えることになる。これだけでよろしい、とさえ言ってもいい。
ただ、これが肝心なのだが、「自分ごと」として考えたら、誰か他の人とこのことを話し合うことだ。私なりのひとつの答えを言えば、それが「推進」するということなのだ。
繰り返すが、この認知症基本法の推進主体は私たちである。私たち一般の生活者である。「認知症の人を含めた国民」全てである。誰かがこの社会を創るのではない。
丹野智文さんは、仙台で認知症当事者たちとこの社会の課題を語り合う「リカバリー・カレッジ」を5年前から開いている。そこでの話し合いでこの認知症基本法を取り上げてもう三回だったかな、何回も話し合いの場を持っている。丹野さんはこんなふうに言っていた。
「認知症基本法の話し合いはとにかく時間がかかる。「希望を持って暮らす」とあれば、そこでみんなが、認知症の私たちの希望ってなんだろうと、それだけで3時間、話し合いが続いてそれで結論に達するわけでもない。そういう話し合いをお昼を挟んで6時間するんだよ。みんな熱心でさ、最初のページだけでなかなか進まないけれど、誰もちっとも飽きない」
いやいや、丹野さん、それはものすごく進んでいるんだよ。それは誰もが間違いなく「自分ごと」として「共生社会の実現」を力強く「推進」しているんだよ。
今、地域社会のあちこちでこうした認知症基本法の「自分ごと」としての話し合いの場が広がっている。認知症の人や専門職や高齢者など、様々な人達が話し合いに加わっている。そうした場を設けるのは、これまで地域で、言ってみれば地べたで、「認知症とともに生きる」取り組みを創り上げてきたキーパーソンが多い。確かな動きが始まっている。
で、ここからは別の意味での「自分ごと」でどこかおこがましい思いがするが、そうした話し合いの場のテクストとして使ってもらっているのが、私が作成した「認知症基本法・わかりやすい版」なのだ。
恐縮するのが、その「認知症基本法・わかりやすい版」を使うことについて、わざわざお断りをいただくことである。
「使用の許可をいただけるでしょうか」などと連絡をいただくと身が縮む。どうぞどうぞ、全く自由にお使いください。お断り頂く必要もありません。嬉しいだけです、と毎回お答えしている。
「わかりやすい版」を作成してよかったなあと思ったことが、ひとつある。
この「わかりやすい版」を使っての話し合いの場で、ある認知症と生きる人がみんなに向かって、こんなことを語った。
「あの認知症基本法を全文、ずっと読み通したんだ。
もちろんわからないところもあった。でもそこにかまわず全部ずっと読み通した。
スラスラとわたしでも読めたんだ。
それが嬉しかったこともあったんだが、読んでいくとなにかひとつの物語のようで、それも自分のことの物語のようで、それが嬉しいような、なんか勇気みたいのが湧いてきた。
これからは、生きていていいことがあるかも知れない、そんなふうにも思ってね。
この認知症基本法って、誰もが読んでほしいなあ、そう思った」
なるほど、それが「わかりやすい版」の本来の使い方かもしれない。そう言われて、私自身、まずとにかく、全部を読み下すようにしてみた。
本当に、「なんか勇気みたいのが湧いてきた」
そうなんだ。
「尊厳を保持しつつ、希望を持って暮らす」
認知症基本法の全体を読んではじめてそこに浮かび上がることかも知れない。
参考:「認知症基本法・わかりやすい版」と基本法の原文と並べた「読みくらべ版」は、こちらからダウンロードできます。ぜひ、ご活用ください。
■ 認知症基本法・わかりやすい版(PDF)はこちら
■ 認知症基本法の読みくらべ版(PDF)はこちら