
▲天使のはしご、とも言われる雲間から差し込む一条の光線、薄明光線というのだそうだ。どうしても何かの幸運の兆しを見てしまうが、この社会を神頼みにするわけにはいかない。
お正月というのは、なんということもなく過ぎていく、というのが、あるいは一番贅沢な正月らしい過ごし方かも知れない。東京育ちの私にとっては帰省という正月ならではの晴れやかで、そして気苦労ご苦労のイベントからはとりあえずまぬかれている。
夫婦二人暮らしだから、新しい年に古い顔を突き合わせて何がめでたいと思わざるを得ないが、マ、見慣れすぎた顔ふたつに互いの年月を確認するようにして、祝杯を酌み交わす。
普段は郊外住宅地に囲まれていて、ポツンと取り残されているような地元の神社に初詣にいき、「良い年になりますよう」とりわけ切実な思い込めてそう祈る。良い年になりますように。
そういえば、年賀状というものがいよいよ少なくなった。こちらもすでに出していないし、この間まで律儀にもらっていた古い友人からの年賀状も、ついに来なくなった。あんまり寂しくもないのは、私の人格の薄さなのだろうか。
時代の変化というのは受け流していいものと受け止めなければならないものとがあって、年賀状は、はい、さようならという時代の必然なのだろう。ここで感傷的になる必要はそんなに感じないのだ、私は。郵政省は、大いに感じているだろう。
改めて正月で感じたのは、正月だというのに、というか正月だからか、元日からジョギングにいそしむ人々のなんと多いことか。
あちらからもこちらからもワラワラとジョガーが現れてはかたわらを走りすぎる。それぞれが本格的なスポーツウエアにランニングシューズで、ここは箱根路だったか。
若い人はもちろんだが、年配の人も目立ち、そうしたご同輩はひたいに汗滲ませてヒタヒタと走り抜けてゆく。すごいなあ。健康のためなら死んでもいい、といった気迫なのだ。
改めて考えてみるに、これはこの国の少子超高齢社会のひとつの風景なのだ。
この国の高齢者の数は2024年で3625万人、総人口に占める割合は29.3%で、これはもちろん世界最高である。ほとんど、10人集まれば3人が高齢者なのは、昼のデパートなどを見渡せば誰もが実感しているはずである。推計では5年後の2030年には30.8%が高齢者と増え続け、やがて10人集まれば半数近くが高齢者の社会も見えている。
だからどうなんだと言われても、私もそのひとりなので何とも困るのだが、元日に額に汗滲ませて走っていたご同輩をみるにつけ、この国の3千600万を超える世代的巨大集団の人々をいつも「高齢者」と括り、陰鬱な集団として切り離し、超高齢社会を不安と怯えの中の悲劇的状況とするのは、もはや無理がある。
私たちはどうしても新年の改まった気分のときは、大きな課題を前に置き、さて、どうしたらいいのだろうと論を立てる。
難題に立ち向かういかにも新年にふさわしい壮大な社会観のように見えて、実はこうした思考パターンはもはや古典的な振る舞いで、辛辣に言えば、どこにも論責を担う気配がない。私たちの目の前にたちふさがる少子超高齢社会を考えるとき、いい加減そうした論の立て方からは逃れた方がいい。ひたすら適正解を求めようとする「課題とその解決」のトートロジーである。
ここにある「課題と解決」の二項設定というのは、今、目の前に横たわる現実を前提として、その問題点をえぐり、ヒト、モノ、カネによって解決しようとするパターンである。確かに、そろばん弾いて何とかなったという成功体験があったのも確かだろうが、すでにこの国には、そのヒト、モノ、カネは無い。
この社会に今、大きな変化が起きようとしている。
共生社会の実現を推進するための認知症基本法の施行があった。ここで打ち出されたのは、認知症を課題とすることから離れて、「認知症」を考えることこそを共生社会の実現の確かな手がかりとすることである。そこに基本的人権を置き、見方によれば、ここには鮮やかな「認知症」の課題設定のしばりからの跳躍がある。
そしてそうした機運を受けるようにして、地域共生社会が改めて論じられ、包摂的な支援体制であるとか、重層的支援体制整備事業などが相次いで打ち出されている。これはいずれもこれまでの社会福祉行政の枠組みを解体する取り組みと言っていい。
これまでの「地域共生社会政策」というのはともすれば、子供や障害、高齢といった従来の属性分野ごと縦割りの福祉行政であったのを組み直し、地域に暮らす人々の自立と意思決定を軸としたケアリングコミュニティの形成を目指している。
ケアするコミュニティ。ケアを看護、介護言語から脱皮させ、人と人の関わりにより良く機能する関係性として捉え、ケアの互酬性を、「すべての生きることの支援」とする「ケアリング」という概念に押し広げたのは、福祉関係ではなく、哲学領域のノディングズやメイヤロフである。
「課題と解決」で腑分けする従来の地域福祉ではなく、それぞれ個人相互の関係性を生き生きとさせるケアリングコミュニティが目指すのは、生活者それぞれの暮らす力に託している。
誰もがにぎやかに語り合い、ワクワクするようなまちづくりは、ケアリングコミュニティの典型だ。
豊かな森は豊かな海を育む。海水はやがて雲となり雨となり、森に降り注ぎ森を育て、豊かな流れは海に注ぎいのちを育む。地球という惑星のいのちの循環だ。
だが、この社会という大地は、そのいのち育む森林の保水力を失いつつある。
この国の若者の自殺が深刻である。
日本の10歳から19歳の死因で、自殺が第一位になっているのは、G7各国のうち日本だけだ。10歳から19歳の死因の約半数が自殺だった。(内閣府令和4年版 子供・若者白書)
日本の小中高生は1週間で約10人が、自らのいのちと未来を絶っている。
この国のいのちを育む社会の保水力は、枯れ果てようとしている。
この社会はいのちを保てない瀬戸際にある。
地域共生社会や超高齢社会や少子化などその全てをひっくるめて、私たちのこの社会は、いのちを育むに足る社会となっているのか。私たちが、年頭に胸奥深くに据えなけばならないのは、そのことなのではないか。
それにはどうしたらいいのだろう。
自分の胸に手をあてるようにしてじっと考えてみてはどうだろう。自分はどう生きたいのか、暮らしたいのか、そんな大きなところから考える必要はない。ごくあたりまえの自分を確認するようにして、そこから改めて自分のまちや友人やちちははや子供たち、そして「自分」をなつかしく眺めるように考えるといい。
そこに浮かび上がるのが、きっとあなたが暮らすまち、ケアリングコミュニティ。