
▲新年1月10日の冬富士。前日の雨が新雪となって富士山を彩った。いつも富士を見るのか、富士に見られているのかわからなくなる。富士はいつも時代を見つめている。
認知症と診断されたからと言っても、「認知症の人」になるわけじゃない、と言ったらどのように受け止めるだろうか。「え? なに言ってるの」と訝しく思うだろうか。それとも、「そりゃそうよね」とうなずくだろうか。
時代の変化というのは、小さなことに宿る。
時代は、巨視的に俯瞰するような視点と、微視するように目を凝らして見つめるまなざしが相まって浮かび上がる。
「認知症と診断されたからと言っても、「認知症の人」になるわけではない」という小さなつぶやきに、大きな時代の静かで確かな変化を読み取れるような気がする。
「認知症の人」というヒトはいない。
あちらに道ゆく人を見て、「ちょっと、そこ行く糖尿病の人のヤマダさん」とは声をかけない。
でも、会合などで認知症当事者が壇上にいると、多くは「認知症の人の誰々さん」と紹介される。
私が「認知症の人」とする語法をあらためて意識したのは、看護師であり「暮らしの保健室」室長で、また、がん患者のための場としての「東京マギーズ」共同代表でもある秋山正子さんと対談した時のことだ。秋山正子さんは、「がんの人」とは言わない。
「だって、「がんの人」という人はいないのよ」
がんには濃厚な医療が必要とされるから、現実的には「がん患者」と呼ばれることが多い。だが、ケア、看護する人のまなざしには、あくまでも「ヒト」なのである。
「だから、私は暮らしの場に戻ってきたがん患者さんたちのことは、「がんのある人」あるいは、「がんと生きる人」って言うの」
「認知症の人」というと、どうしても「認知症」が前景化し、その「ヒト」を規定し後退させてしまう。
「認知症の人」という語法の厄介なところは、何の違和感もなくするりと口にすることができることにある。そこに、ヒトより先に「認知症」を意識させる「仕掛け」が潜んでいる。
認知症の本人発信では、認知症と診断されることはその人から名前と人生と尊厳を奪い、「認知症の人」というラベルを貼られることだとされていた。
認知症の診断は、そのまま何の支援にもつながらない不安と絶望に落とし込み、早期診断は早期絶望であると、認知症当事者の藤田和子さんの告発のようなスピーチがあったのは10年前の2014年のことだった。
「認知症の人」という呼称は、無意識で悪意もなく、誰もがその人を「認知症」というスティグマで規定してしまう。時と状況によって、それは「可哀想な人」であったり、「つらさと困難を克服した人」であったりするが、そのどちらにもヒトが希薄である。「今を共に生きているヒト」をかき消してしまう。
ただ言っておかなくてはならないのは、私は何もここで「認知症の人」という呼称を否定しているわけではない。いつもこうした論では言葉の妥当性ばかりに目を向けがちだ。
言葉自体を論じる時には、言葉にまとわりつく意識や状況に思考を向けないと、単なる言葉狩りになってしまう。
実際に私自身も、文章では「認知症と生きる人」「認知症のある人」を選択することもあるが、なかなかしっくりとこない。ただ、シンポジュウムなどで認知症当事者と一緒になる時には、職能的便宜として「認知症の人」であることを示す必要がある。そうしたときは最初の紹介に、診断されたことやその後の暮らしぶりなどに触れ、あとはほとんど本人のお名前だけで語り合いを進めている。
それはなぜだろう。そうした公の場では「認知症の人」と言うことで、聴衆の側に「認知症だから」「認知症なのに」と言った先入観を持ってもらいたくない気分がある。「私」と「認知症の人」の語り合いではなく、「私たち」の語り合いに開いていきたいのである。
要するに、現実の言葉の用法の問題ではない。そこに潜在する私たちの意識の問題である。
ただ、認知症基本法以降の時代の空気を敏感に感じ取るなら、「認知症の人」のラベリングから離れ、「私は私」であることへの流れは加速している。
時代を推し進めたひとつの要因には、認知症基本法の基本理念に「全ての認知症の人は、基本的人権を享有する個人」とされたことが大きい。
ここでの基本的人権とは、「認知症の人が自らの意思によって日常生活及び社会生活を営むことができるようにする」ことの裏付けとして置かれている。
だからこそ、認知症基本法が、その前句に「共生社会の実現」を掲げることができた。
認知症基本法に「全ての認知症の人が、基本的人権を享有する個人」とされたことが、認知症基本法が掲げた「共生社会の実現を推進するため」の柱であり根拠なのである。
ただ、いつもこの認知症基本法を、時代の輝かしい成果とのみ見ることには慎重でありたい。
「認知症の人の基本的人権によって、自らの意思によって主体的に暮らすことができるようにすること」の条文の紙背を、目を凝らすようにして透かし見れば、それはかつてそうした権利を奪われた時代があったことが浮かび上がる。
かつて痴呆の人とされ、権利を奪われ、収容と隔離と拘束に追い込まれた人々の無念と絶望を経て、この認知症基本法ができたことを私たちは忘れるわけにはいかない。
この基本法は、権利を奪われてきた認知症の人の人間回復宣言の側面を持つ。
だから、「認知症の人」とする何気ない語法への私の違和感は、この時代が認知症の人の権利の収奪の精算がまだ済んでいないことの歴史の記憶からの呼びかけかもしれない。
2000年初頭から、スコットランドでは「認知症と権利」に注目した動きが生まれ、それが認知症への「ライツ・ベイス・アプローチ Rights-Based Approach/権利ベースのアプローチ(RBA)」という潮流となっている。
「認知症」を権利の視点から考えることは、「認知症の人」を支援の対象ではなく、権利を持つ主体とする。そこに「共生社会」が動き出す。
支援の対象とすることには、あたりまえのものとしての権利が奪われる状況を生みやすい。認知症の当事者たちが、できない、わからない人ではなく、「できることがある、やりたいことがある」と訴えたのは、その背後の奪われたヒトとしての権利の回復を呼びかけていたのである。
この権利アプローチは、権利を持つ誰もの「自分ごと」や「共に生きる」社会を確定的にする。ヒトが尊厳を持って主体的に生きることができる条件を権利とすることは、認知症を超えて、誰もの共に生きる社会をひらく。
そして「共に生きる」ということは付与されたものではない。奪われた権利を回復させるための「自分ごと」として人々が関わり合うことで、共生社会を底深いところからエンパワメントする。
認知症基本法は出来て終わりではなく、スタートだというのはこういうことだ。
「認知症と診断されたからと言って、「認知症の人」になるわけじゃない」
実はこのことにまず反応したのが、認知症医療やケアに当たる人々である。そして各地の認知症カフェなどのまちづくりに取り組む暮らしの人々だった。
ある認知症医療者は、「認知症の人に何ができるだろうか」を「認知症の人と何ができるだろうか」と組み直した。認知症の人を「認知症の専門家」とし、当事者参画を「診断後支援」としてのピアサポートにつなげたのである。
認知症基本法は、手にした私たちが変わることで社会を変え、そこに権利が微笑む。
2017年、大阪で世界の当事者たちとフォーラムを開いた時、参加したクリスティーン・ブライデンは最後に聴衆に向かってこう締めくくった。
「認知症は、私のごく一部に過ぎません。それよりも私は女性であり、妻であり、母であり、3人の孫の祖母であるのです。それが私です」