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共振する言葉、「自分とともに生きる」

▲わたしのある講演のレジメスライド。これで何を言うのかを決めるのではなく、この言葉で、聴く人は何を思うのかを等量に考える。そうすると、わたしの語る「共生社会」が浮かんでくる。

講演を頼まれると大概は、事前にレジメを求められる。
レジメ、レジュメとも言われるが、もともとは論文での概要で、考察の趣旨や要点などを記したものとされているのだが、私の場合、事前にレジメとして主催者側にお渡しするのはそうしたレジメとは随分と違っていて、いつも申し訳なく思っている。本当にそう思っているのかどうかはひとまず置いておいて、そのあたりを語ることが、私の現在の社会観にもつながるかもしれない。

私の講演はパソコンのアプリで作成したもので、言ってみればスライドショーである。
で、問題なのは(とは言っても私自身はちっとも問題と思っていないのが一番の問題なのだが)、講演で次々とプロジェクターで映し出されるスライドにはほとんどキーワードだけしか記されていない。説明的な文章というのがほとんどない。

だから、そのレジメを見ても多くの人にとっては「ナンノコッチャ」なのである。
例えば、テーマが地域福祉、社会福祉に付いての講演となると、その中の一枚のスライドには「共生社会」と大きな太字フォントで記しているだけのものがあったりする。
事前にそんなレジメをもらっても、なんの参考にもならない。ならないだろうな。でも、本当に参考にならないのだろうか、とも私は思っていたりする。
確かに事前にそんな不親切なレジメを渡されれば、「なんだ、これ」と思って当然なのだが、あるいはひょっとしたら、一体この「共生社会」だけのスライドで何が語られるのだろう、と思ってくれる人がいるかもしれない。実はそんな事も考えている。

もちろん前後の文脈によってもその一枚にドンと記された「共生社会」のスライドで何を語るのかは当然違ってくる。さらに言えば、聴衆によっても変わる。
地域の生活者の人々なのか、福祉の専門職なのか学生なのか、それとも行政に関わる人々なのか。そのそれぞれの聴衆によって語ることは変わる。変わると言ったが、実は変わらない。

おまえさん、さっきから何を言ってるんだ、と言われそうである。
確かに聴衆の層によって語ることは変わる。しかし、語る内容が変わるわけではない。変わるのは語り口なのである。言いたいことをどう伝えるのか、伝えたい、そのことをその人々の心に飛び込むようにして響かせたい。どれだけのことを言えるのかはわからないが、その人に届けという思いを込めると、聴いている人それぞれの表情に受けとめてくれたかどうかの波長を感じ取ることができる。

いや、ホントなんだって。
老年看護学を自身の実践と理論で切り拓いた中島紀恵子さんは、ケアとは共鳴し共振することだと述べている。ケアする人とケアされる人ではなく、相互に共鳴し、共振する関係性をケアと語っている。
「共振」する社会。深く豊かな意味合いを含んだ言葉だ。こうした言葉は解釈しないほうがいい。大きく重い梵鐘も、指先ひとつで小さく小さく押しているとやがてその固有振動がうまれて、やがて大きく共振していく。

共振する言葉。それが本来の福祉の言葉なのである。
「共生社会」とは、という高みから語らない。「共生社会」とだけ記されたスライドから何を語るのか。そこからどのような共振が生まれるのか。

私達はどうも「共生社会」とは、とか「地域福祉」とは、「認知症基本法」とは、といったお題目から語り始めすぎる。それはなんの共振も起こさない。解説でしかない。解説はなんのためにあるのか。正解のためである。私達は、お題目の「解釈」と「正解」を求めすぎる。しかも最短距離での正解で、しかも誰かの「正解」を求めすぎる。

それも無理はない。SNSの時代には、何かわからないことがあれば誰もがスマホを取り出し、チャチャッと検索すれば、たちまち「正解」を手にすることができる。なんでもわかっちゃう。
だが、それは「わかる」ことなのだろうか。それはあなたの「正解」なのだろうか。

私達は「わからないこと」に幾夜も頭を捻り、枕から見上げる天井にヒントを探し、ある夕焼けの空の輝きに、そうか、と叫びたくなるほどの「わかる」ことの喜びを、単なる時代遅れの感傷に捨て去った。SNSの時代は、わからないことへのわかろうとするプロセスをすっかり中抜きにして,考えることを飛び越した正解だけを手にしてわかったつもりになっている。

「沈黙の春」で知られる生物学者、レイチェル・カーソンはその著「センス・オブ・ワンダー」で、「知る」ことは、「感じる」ことの半分も重要ではない、と言っている。知識としての「正解」を追い求めるより、わからないことへの感性を研ぎ澄ますことこそが大切なのだ語っているのだ。
センス・オブ・ワンダー、不思議さに目を見張る感性。

私は、福祉を語るということは正解を語ることではないと思っている。
福祉を語る、福祉を生み出すということは、言葉以前の何かを感じることだ。そしてそこから、問いを立てることだ。この複雑多様な社会に、あなたの問いを立てる。そしてやがて、あなたの問いと彼や彼女たちの問いが集まってこの社会のどこかがきっと共振する。それが共生の社会という姿だ。

ずいぶん以前、若い人々に一枚のキーワード「共生社会」だけが記されたスライドにこんなふうに語ったことがある。
「共生社会とは、自分とともに生きることだ」

実際はその後、あれこれとわかったような話に広げていった記憶があるが、本当は「自分とともに生きること」だけで十分だった気がする。なぜならその時、多くの若い人が「え?」というふうに顔を上げたのだ。それから先は彼ら彼女たちに託すべきだったのだ。あれは今から思えば、彼らの中にきっと何かが共振したその波長だったのだ。

共生社会とは、自分とともに生きること。

私のレジメのどこをめくってもそっけないキーワードばかりで、どこかの偉いセンセのようにしっかりとした考察の文章も緻密なデータも載っているわけではない。講演を聴かなくても、レジメさえ読めば大体はわかっちゃうような便利な体裁とは程遠い。
でもね、福祉を語るというのは、人が人に語ることで、単に情報や知識の伝達というより、思いの共有なのだ、と私は思っている。一つのキーワードの単語からどれほどの思いや体験や広がりの厚みを持って語りかけることができるか。どれほどの共振する言葉を連ねられるか。聴衆との共同作業が,わたしの講演するということだ。

実際、びっしりと書き込んだスライドを読み上げるようにすれば、講演時間通りに収まるし、無駄話にずれることもない。でもね、それってやっているわたしがつまらない。つまらないというのは、聴衆の皆さんの波長を感じ取れないからだ。
講演はライヴなのだ。いつも控室で、キーワードだけでどう語るか、そのイメージトレーニングらしきことをして脂汗を流している。
だから、キーワードばかりのレジメで私は手抜きしているつもりはない。(少しはあるかも・・)

私のつたない講演を聴いてくれた人たちが、ぞろぞろと会場をあとにするとき、
「うーん、私ならどう考えるかなあ」
と呟いてくれたら、それはきっとあなたは自身の中に共振する何かを感じ、そしてそこからあなたはくっきりとしたあなたの問いを立てようとしている。
そういう講演になったらいいな。

|第306回 2025.2.4|

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