認知症の人と家族の会 会報誌「ぽ〜れぽ〜れ」 2019年6月号(467号)

ー お便り紹介 ー

情けなさで心が空っぽ岡山県・Bさん 女
87歳の母とふたり暮らしです。平成27年に嗜銀顆粒性認知症と診断されています。信頼できる医師のもと、状態は安定していましたが、昨年の西日本豪雨により、自宅2階まで水に浸かり、全壊。現在は、みなし住宅に住み、母は自宅が再建されて、戻れることだけが生きがいです。母はショックと環境の変化に戸惑い、認知症が進み、怒りっぽくなりました。私も気持ちの余裕がなく、母に対して鬼の形相で怒ることが多く、母は増々混乱しています。本当にひどいことをしているとわかりながら、自分をコントロールすることができません。介護職を15年以上し、資格も持ちながら、職場のデイサービスでは利用者さまの話に耳を傾け、笑顔で接することができるのに…。家に帰れば、母にひどい対応をしてしまい、情けなさで心が空っぽになります。今までわからなかった家族介護者の気持ちが初めてわかりました。される方も、する方も、お互い悲しいということ。母が私の仕事のお手本です。気持ちのコントロールが難しい時は、姉たちに本音をぶつけ、助けてもらっています。

「NHK 介護百人一首」に感動新潟県・Cさん 男
「オムツ替え もの言えぬ人の 慟哭は 眉間の丘の 小さな動きに」「NHK介護百人一首」で、男性介護士の作品に感動しました。私の家内も認知症の末期で同じ状態での今、会話、食事、不能。目もたまに開けても、視線は私とは繋がりません。15年間、本当に言葉に出せない、いろいろの修羅場でした。特に初期の混乱時代は、ただどうしてなの?何でできない?の毎日でした。介護認定を受けて何よりも助かったのは、親身に相談を受けてくれるケアマネに出会えたこと。家内がこうだと相談すれば、奥さまの気持ちはこうなんですよと教えてくれました。「家族の会」の存在を知り、始めて参加した時は、他の介護者からの徘徊、暴力、暴言などの言葉に衝撃を受けました。家内は徘徊もない、一人が怖くて私の後ろに何時もいました。暴言もなく、私が逆に暴言でいさめたこともありました。私よりも大変な介護者の言葉で、「私の介護はまだ比べれば軽いんだな」と思わされました。少しながら介護の対応ができ始めたのは、数年過ぎてからでした。何よりも家内がかわいそうでした。失禁の後始末をしている時に、家内が泣きながら言った「お父さんかわいそう」との言葉を聞いた時は、私も泣きました。歩行困難になり、もう限界と悟った時には、特養に運良く入居できました。それからは毎日の面会を欠かさず、誤飲で医師がCTを見ながら、「もう末期で延命しかできない、いざと言う時は覚悟を」と言われました。私は「延命でなく、救命してほしい」と反抗的な言葉で医師にお願いしましたが、取り上げてくれませんでした。しかし、それからもう一年半経ち、経鼻栄養でも私の毎日の呼びかけや刺激に、私にだけ判る僅かな表情の変化で応え、手を握れば握り返してくれ、お互いの額をつけ合うと首を振ってくれます。認知症は、医療より介護の仕方で命永らえるとつくづく思いました。冒頭の介護士の短歌は、相手の僅かな表情まで見つめる様子が伝わってきます。 私は15年間、介護してきたから判るけど、この方に介護を受けておられる被介護者は幸せです。

認知症初期集中支援チームの協力で東京都・Dさん 女
父が母の介護をしています。平成30年6月、認知症初期集中支援チームの協力を得て、やっと受診できる状態となり、毎月なんとか受診させています。最近は父への暴言・暴力が出たり、病院へ到着したあと、受診を拒否し、大声を出し、病院から出て行ってしまったり、父も苦労しています。カバン、財布もよくなくし、近所の人が盗ったと大声で言うこともあります。父が仕事で不在の時は、カメラで母の様子を見て確認し、何かあれば父へ連絡をするなどで対応しています。今後は、心のケアをと思い、「家族の会」のことを知り、入会しました。