認知症における漢方の役割とは

認知症の症状の中には、記憶障害や見当識障害といった誰にも共通して現れる「中核症状」に加えて、「もの盗られ妄想」「徘徊」「不潔行為」など、人によって異なる行動・心理症状(BPSD)が見られることがあります。こうした症状は、周囲の人との関係を複雑にしたり、介護者を疲弊させてしまうことが少なくありません。認知症のある人の言動には理由があり、その背景には不安や混乱、環境との不調和があることが多いのです。こうした症状にどう向き合うかは、単に「抑える」だけではなく、本人の尊厳や安心を守る姿勢が大切です。

これまで、BPSDへの対応には抗精神病薬や抗不安薬などの西洋薬が多く使われてきましたが、その一部には心身の活力までも低下させてしまう作用があることも課題でした。こうした中で注目されているのが、漢方薬です。漢方は「困った症状だけを穏やかに和らげ、日常生活の力は奪わない」という特徴があり、自然なかたちでの支援を目指す医療として、多くの現場で用いられています。

なかでも「抑肝散(よくかんさん)」という処方は、神経の興奮を鎮めることで、怒りっぽさやイライラをやわらげ、本人の落ち着きを取り戻す助けとなります。症状が和らぐことで、介護をする家族にもゆとりが生まれ、より穏やかな関わりが可能になります。本人も家族も無理のない形で生活のリズムを保てるようになり、日々の暮らしに少しずつ笑顔が戻ってくるのです。

抑肝散以外にも、「釣藤散(ちょうとうさん)」「抑肝散加陳皮半夏」「黄連解毒湯(おうれんげどくとう)」「当帰芍薬散(とうきしゃくやくさん)」など、さまざまな漢方薬がBPSDや身体の不調に効果を発揮しています。どの漢方薬を使うかは、医師が一人ひとりの体質や症状の出方を見て丁寧に選びます。もし合わないと感じた場合は、無理をせず、他の処方に変えることも可能です。認知症の方すべてが同じ薬を使うわけではなく、それぞれに合った選択ができるという点も、漢方の持つ大きな特徴といえるでしょう。

さらに最近では、アルツハイマー型認知症の根本的な治療に向けた研究においても、漢方薬の可能性が期待されています。たとえば抑肝散に含まれる「釣藤鈎(ちょうとうこう)」という生薬には、アルツハイマー病の原因とされるベータ・アミロイドの蓄積を抑える働きがあることが、動物実験レベルで確認されています。さらに、「牡丹皮(ぼたんぴ)」にも同様の効果があると報告されており、将来的には漢方を基盤とした治療薬の登場も期待されています。

そして、認知症にともなう身体的な合併症の緩和にも、漢方薬は大きな役割を果たしています。便秘、尿失禁、疲労、食欲不振、こむら返り、不眠、嚥下困難など、認知症のある方が日常的に抱えやすい症状に対し、漢方は複数の不調を同時にケアできるという利点があります。こうした多機能性は、現在問題となっている「薬の多剤併用」のリスクを減らす可能性も秘めています。

漢方薬は、ただ症状を抑えるだけでなく、その人の体のバランスや心の状態に寄り添いながら支える存在です。認知症とともに生きる時間が、少しでも心穏やかで、その人らしくあるために。本人の声にならない訴えに耳を傾け、尊厳を大切にしながら支える手段のひとつとして、漢方が果たす役割は今後ますます広がっていくことでしょう。