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障害とは何か 〜映画「桜色の風が咲く」を観て〜

コラム町永 俊雄

▲映画「桜色の風が咲く」は、盲ろうの大学教授、福島智さんと母親の実話をもとにした物語。いわゆる「障がい者」の物語を超えて、人間存在への讃歌だ。

「桜色の風が咲く」という映画を観た。
9才で失明、18才で聴力を失った盲ろうの大学教授の福島智さんと、ひたすらに彼を支えともに生きたその母・令子さんとの実話をもとにした物語である。
福島智さんは、東京大学先端科学技術研究センターのバリアフリー分野の教授で、盲ろう者で大学教授になったのは世界で初めてだそうだ。

盲ろうとは、視力と聴力を失う障害である。
実は、福島智さんとは、かつて、担当番組で何度か対談している。見えない聴こえない福島さんと私は、指点字通訳の人を介して対談する。福島さんは18才まで聴こえていたので、話すことに支障はない。福島さんの指に置かれた通訳の人の指点字の素早く滑らかなタッチで私の言葉が伝わり、それに福島さんは澱みなく深い考察を返す。

指点字を通して言葉の抑揚や強弱がふるい落とされる分、どこか洗い直された情報そのものが伝わっていくようで、私は言葉を発するたびに緊張したことを覚えている。
しかし収録終わって控え室に戻ってからの雑談では、福島さんはさかんに冗談を交えて話すのである。関西人ですから、と言いながらジョークを飛ばし、こちらの冗談もちゃんと受けてくれる。
見ると、冗談を言い交わしている時、指点字通訳の人は、福島さんの手を軽く連打している。聞けば、それは「ははは」という笑い声の表現で、それを伝えることでその場の雰囲気もわかるのだそうだ。
指点字のコミュニケーションは豊かな表現力に満ちている。
映画では、盲ろうというコミュニケーションの欠落の中で、親子の想いをつなげる、その指点字が生まれた瞬間も描かれている。

映画は、重複障害を持つ子どもとその母親の日々を、母親を主人公として描く。
物語は、ある一家の大晦日、年越しの様子から始まる。平凡ながら、温かな家族の風景。二人の兄を持つ末っ子の智。誰からも可愛がられるこの智は、その後、繰り返し襲う試練の中を育っていく。

初詣で智の目の異変に気づく両親、そこから幼い我が子の果てしない闘病が始まる。検査のたびに泣き叫び、必死に救いを求めて母に手を伸ばす智に胸締め付けられ、ただいたたまれない。どうしてあの幼い子役でこうした迫真のシーンが撮れたのだろう。そんなことも思ってしまう。

しかし、幼い智の眼病は容赦なく次々と厳しい試練を繰り出し襲いかかる。
3才で右目、9才で左目を失明、その智に対して母は何もできない自分の無力感を背負いこむしかない。
この映画を特色づけているのは、現代社会最高の知者の一人である現在の福島智誕生に至るまでの、そこに伴走した母親令子のひたすらの愛と思いを、時に智の苦悩と同期させ、時に葛藤させながら描いていることである。

だから、母、令子は確かに終始、靭く(つよく)凛とした存在と描かれるが、それは母として弱くはなれない立場を引き受けざるを得なかったのである。
智が右目を失明し、さらに左目の視力も失うだろうという非情な診断宣告を受けた時、見えなくなる恐怖の中の我が子を思うと、「何もしてやれない私」と、他のことは何も見えなくなる。
病院の智につきっきりの令子のところにやってきた夫が、「もうみんな限界や」と訴えるが、妻であり智の母は、「私にどうすればいいというの」と言い放つしかない。

失明した智は東京の盲学校に入学する。そこでは盲学校での友人との屈託ない青春の日々が展開する。想い寄せるピアノ好きな女子生徒との交流。
ここでは智の自立と聡明さが開花していく。母の圧倒的な庇護から距離を置いて、他者との関わりの中で、自己を成長させていき、この映画の主題ともやがて重なっていく。

その伏線はドラマの中に埋め込まれている。智は、点字本の読書と思考することの好きな青春の若者であり、その中で愛読したのがカフカの変身だった。智は友人にこのように叫ぶ。
「グレゴール・ザムザは虫になるんや。それはたまたまや。全ての人が虫になる可能性を持っている」
彼がなぜこの実存主義文学に惹かれたのか、「虫」とはどんな存在なのか。彼の読書体験はどこか深く彼の内面と、観る側のわたしたちの中に伏流していく。

そのさなかに、智は、今度は音を失っていく。聴力を失う。それは光と音を失うということだ。
「僕から世界が遠ざかっていく」
「たった一人で宇宙に放り出されたみたいだ」

智の苦悩は、母にとっては筆舌に尽くし難い。
それまで常に靭く凛とした存在として描かれ、どのような試練にも思いや悲しみ、怒りさえもじっと押さえ込むようにしてきた母は、ここで初めて布団の中で慟哭する。顔を手で覆い嗚咽する。抑制されたシーンであるからこそ、母の悲哀は極まりない。

苦悩の頂点から物語は転調する。
かつて、まだ幼かった智が目を患って入院していた頃知り合った歳上の視覚障害者の矢野が、智を訪ねてくる。
智は彼に自分の苦悩を打ち明ける。母ではなく、他者に打ち明ける智を映像は不安定なアップの画角で迫り、そこから溢れ出る苦悩を描く。

私がこの映画で最も印象深く見たのは、これに続く対照的に静的なシーンである。
訪ねてきた先輩の視覚障害者が智の家を出ていくシーンだ。夕暮れどき、下町の家々が重なるように並び、映し出す景色は広々としたロングショットで、アングルは固定されている。
その中心に小さく母令子と智、白杖を持った視覚障害の人が現れて別れの言葉を交わすのだが、その時、彼は智にこう語りかける。
「見えへんというのはどういうことか、聴こえへんということはどういうことか」
それからその人はゆっくりと帰っていき姿が見えなくなり、見送った親子は家の中に戻っていく。
時間の流れそのままに、このシーンは、息詰まるほどにとても静かにとても深く問いかけている。

この物語の母は、智が盲ろうという視覚と聴覚を失った頃から、自分自身の中で智への視点を変えていく。それまでひたすら智の障害をなんとかしてあげたい、何もできないという振幅の中で自身の苦悩を増幅させるしかなかった母は、いつしか智の障害を見るのではなく、彼の人生や生き方の応援者としてその自分の姿を変えていく。
障害で失ったものを嘆く母ではなく、障害を持つ智自身の人生や生き方や意味へ大きく傾斜していく。その関係性の構築があったからこそ、指点字も生まれた。それは、智という存在に意味と言葉を与え、再び、世界に接続した瞬間だった。

「見えへんということはどういうことか、聴こえへんということはどういうことか」
視覚障害の先輩である矢野の問いかけは、カフカの実存主義文学の問いかけと共鳴するようにして智の中に伏流し、現在の福島智氏の「障害とは何か」という自身の研究テーマに流れついているようである。
自分の障害体験の持つ実存的意味として、自分が障害を持つことは自分の人生にいかなる意味を持つのか、人生において真に価値のあるものは何かと、福島智氏は、なお人間存在への新たな地平を拓くようにして問い続けている。

この映画は智に、時に残酷なまでの試練を与えるが、そのリアルを描く一方で、人間存在の普遍の輝きをそっと差し入れている。兄が智に手渡す一葉の家族写真、盲学校の同級の少女が奏でるピアノ曲、いつの間にか習得したらしい父の点字の手紙。

そして、この物語には、詩人吉野弘の「生命は(いのちは)」が、いのち吹き込むように引用されている。その一節にはこうある。

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

それまでかたわらに置かれていたような家族写真やピアノ曲や手紙たちは、この吉野弘の詩に導かれ、それらは堰を切ったように輝きながら、満開の桜並木を(見ながら)歩くこの親子への讃歌となって響き合い流れ込み、生命の欠如を満たしていく。
風が咲く。人間存在そのものへの讃歌。

この映画のささやかなギミックのひとつに「桜色の風が咲く」のタイトルに重なるようにして、A Mother’s Touch と英語タイトルが浮かび上がる。
あなたが感じ取る「マザーズ タッチ」はなんだろう。観た後、だれもが長く心揺さぶられる体験をするに違いない。

|第228回 2022.11.11|

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