
▲認知症基本法の基本計画が閣議決定された。これからは各地域での基本計画策定のための話し合いが始まる。そのためのお役に立てれば。左が「わかりやすい版」、右が基本法原文との「よみくらべ版」。
このコラムも前回で300回を超えた。
まことに小さな声をつぶやくようにしてここまで回を重ね、その時々の気づきや想いやとまどい、それから理不尽へのはかないあがらいの言の葉という落ち葉のコラムだ。
落ち葉というのはやがて朽ちて堆積し腐葉土に熟し、そこからいつか、またなにごとかが芽生えるわけで、その意味ではほのかな自負も込められている。
そんなことを重ねてきて、最近それなりの手応えがあったのが、認知症基本法に関しての動きである。
実はこの「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」が成立した時の、当時の関わる人々の抑制しながらの高揚感は今でも覚えている。
あの頃のコロナの日々をくぐり抜けたこともあってか、誰もが自分の高揚を引き締めるように、これからだと言い合いながら、その実、早く飲みに繰り出したいという表情を浮かべていた。つまりはごく当たり前の自分がそこにいて、その自分が誇らしかったのかもしれない。
その宵、私はこの基本法の「わかりやすい版」の作成をてがけた。書庫の昔の法律書のホコリを払ったりしながら、ボチボチとパソコンを打ち続けて書き上げた頃には、夜は明けていた。これで、世が明ける、としょうもないことを思い描いた。
このコラム欄に、その「わかりやすい版」を掲載させてもらったのが、2023年の6月23日だった。
認知症基本法が成立したのが6月14日だから、ほぼ一週間後には「わかりやすい版」ができていたことになる。普段、何事にもウダウダする私にしては、なかなかガンバった。それもあの頃の新鮮な機運が反映したのだろう。
そんな事もあって、その後あちこちの私のネットワークに関わる人々からこの「わかりやすい版」の問い合わせが続いた。そのたびにこのわかりやすい版ファイルをお送りしていたのだが、その後も問い合わせが相次ぎ、ならば、いっそこのコラム欄にダウンロードできるようにしたらどうだろうとこの認知症フォーラム・ドットコムのWEB編集から提案があり、このコラムに掲載できることになった。
▼以下のURLから「認知症基本法・わかりやすい版」と認知症基本法の原文との「よみくらべ版」がダウンロードできます。
「よみくらべ版」と言うのは、認知症基本法の原文と「わかりやすい版」を比較対照できるように左右に並べて記してあるファイルだ。
「わかりやすい版」があちこちの勉強会などで使われるようになって、そのファシリテーター役の人から、話し合いではよく原文と比較することが多い、と聞かされた。なるほど、それなら、というわけで作成したのが「よみくらべ版」である。
私自身も、今なお、原文にあたって引用することが多いから、この「よみくらべ版」はたしかに使い勝手がいい。お試しを。
これも以前記したことだが、この「わかりやすい版」には、お手本、つまり先行モデルがある。
それが、2011年の改正障害者基本法だ。
それまでのこの国の障害者基本法を、国連の「障害者権利条約」ができたことに合わせて抜本的に改正することになった。その検討のためにできたのが、2009年の「障がい者制度改革推進会議」だ。
その委員のメンバーには障がいのある人や家族、支援者たちが半数を超え、そうした人々の毎回4時間を超える議論が18回にも及んでできたのが、「改正障害者基本法」だ。
まさに「私たち抜きに私たちのこと決めないで」のプロセスを誠実に歩んだのである。この一連の動きは画期的で、当事者の存在が社会を変革した典型といってもいい。
そのメンバーが作成したパンフレットが改正障害者基本法の「わかりやすい版」である。
特色的なのは、この障害者基本法の「わかりやすい版」は原文の正確な逐語訳的ではなく、理念への想い込めた意訳表現とも言える。それを可能にしたのは、そこに至る制度改革推進会議の議論の膨大な質量があったからだろう。
対して、認知症基本法はこれからそうした暮らしの中の議論が始まっていく。
だから、この認知症基本法の「わかりやすい版」は、原文の構成要素に忠実に記してある。
認知症当事者やそうでない人との話し合いを想定して、「基本的人権」や「合理的配慮」などのキーワードをそのまま残し、そこに最小限の注釈を載せた。
例えば、「合理的配慮」には、カッコを付け、そこに(認知症の人が何か困ったり、やりづらいことがあれば、その人の立場になって必要とすることをできるようにすること)と付記した。
こうしたキーワードを手がかりに多様な人々の話し合いが始まればいい。
だから、この認知症基本法の「わかりやすい版」は、「わかりやすい」と名乗っているが、実はわかりやすくはない。ここでの「わかりやすい」とは、それはレベルを落とすことでもなく、親切げに誰かの解釈へと誘導するものでもない。「自分ごと」のテクストとして用語を暮らしの言葉に変換しただけである。
「わかる」とは、自分のわかったという結論をなるべく後ろにズラしながら自分の感覚と丁寧に付き合うことである。とりわけ、この基本法は、他の人とともに読み、語り合うことで「わかる」とはどういうことかが「わかる」ようになっている。
そう、だからこの認知症基本法の「わかりにくさ」を楽しんでもらいたい。
性急にわかろうとしない。「わかる」とは、自分が何がわからないかが「わかる」ことだ。
わかろうとする自分を、ゆっくり楽しむ。そこにはきっと誰かがいる。二人だとジグザグ。みんなだとワイワイ。そうしてどこかに新しい「わかる」が見つかる。
それはそのまま、「人との関わり」の大切さと楽しさになる。人と関わるって、わかりにくいだろ。だから楽しいし、自分を生き生きとさせる。
前回も書いたが、「わかりやすい版」の全文をまず先入観なしに読み通すのもいい。
ある認知症と生きる人はこんなふうに語った。
「全文をまず読み通してみた。
読めるよ。わからないところもあるけれど。
そうしたら、なにか勇気が湧いた。
ここには自分の物語が記されている、そんな気がした。
認知症基本法って、そんな事が書いてあるんだな。きっと」