今年の梅雨明けを気象庁が、過去にないほど大幅に修正した。関東は6月の末に梅雨明けとされていたのが、「すまん、実は7月23日頃だったことにする(こんなふうにいいかげんに言ったわけではないが)」と、一ト月近くずらして修正したわけで、これほどの大幅な修正は過去になかった。
秋田で地域ミーティングを開いた。コロナの日々でどうしても停滞していた地域がこれからどう動くか。どうあったらいいのか。コロナに覆い隠されていた課題をどう見つめ直すか。
今年も第6回の「認知症とともに生きるまち大賞」の募集が始まっている。このコロナの事態が始まった2020年には、果たしてどれだけの応募があるかと気を揉んできたが、確かに応募数は以前に比べれば減ってはいる。
喪失の時代である。私たちのこの社会は、ひたすら喪失し続けている。繁栄を失い、人口を失い、若さを失い、子供を失い、地域を失い、未来を失うという喪失の社会の中に私たちはいる。
「認知症とともに生きる」ということは、改めてどういうことなのでしょうか。何か、同じことをひたすらくりかえし問い直しているようですが、大きな岩も指先で小さく小さく突き動かせば、やがて地響きたてて転がるかもしれません。
宮本武蔵の言葉に、剣の奥義とは「観の目を強くし、見の目を弱くする」というのがあるそうです。
大分県佐伯市内にある「在宅支援クリニックえがお」。訪問診療を行うクリニックですが、理事長の山内勇人医師が中心になってさまざまな地域活動を展開しています。
桜の季節が近づいていますね。思えば、わんさと連れ立って花見に出かけられたのは2019年まででした。以来2年間にわたって新型コロナの日々が続いたわけですが、皆さんはどんな風に過ごしてきたのでしょうか。
このコラムも200回を超えた。第一回が2008年7月だからもう14年間続いているわけだ。コラムタイトルは認知症EYESだから、当然、認知症がテーマなのだが、200回を超えて描いたこの社会の認知症を改めて振り返ると、そこには大きな変化を見て取れる。
「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ」とは、ヘーゲルの「法の哲学」の中の一節である。初めてこの言葉に接した時は、詩的で映像的で、神話に託された不思議な世界観にただ魅せられた。
群馬発 長寿の未来フォーラム 人生100年時代への処方箋 〜最高齢化率の村に学ぶ“健やかな暮らしと生きがい”〜
今年の「認知症とともに生きるまち大賞」の表彰式とフォーラムを開催した。今年の「まち大賞」は、どれも不思議な活力がみなぎっていた。どの紹介映像にも、地域の人々の笑顔が輝いていた。
パラリンピックは、未曾有の感染爆発の中で、「やめたほうがいい」と示唆する専門家もいたが、なかば強行されるように開催された。
2021年3月14日、東京渋谷でフォーラムが開催され、インターネットでライブ配信されました。
朝の連続テレビ小説、「おかえりモネ」をついつい視てしまう。私にとって朝ドラというのは、朝刊、トースト、コーヒーとともに出てくるモーニングセットのような生活習慣で、いつもなんとはなしに見始める。
今年も「認知症とともに生きるまち大賞」の募集が始まった。去年に続き新型コロナウイルスの日々の中の募集である。緊急事態が解除されたとはいえ、不要不急の自粛や密の回避の中で、どうしてまちづくりなどができようか、そんな声も聞こえてくる。
認知症ケア学会が6月5日から始まった。その冒頭の特別講演をおおせつかった。どうやら、学会理事長の繁田雅弘さんの画策らしい。「あのマチナガに語らせちゃおうじゃないか」、たぶん、そんな感じだったのだろう。
「汗を流して畑仕事をするようになって、将来の不安が減ったような気がする」と郊外の貸し農園に来る高齢者が言ったという。渋谷で「超高齢社会を生きる」のオンラインフォーラムを開く。
福祉を語ることに皆さんはどんなイメージを持つだろうか。私が現役の頃、番組で「福祉を語る」というタイトルで各界の著名人にインタビューするコーナーを企画した。今から20年以上前の話だ。
石川県発オンラインフォーラム 超高齢社会を生きる ~コロナ禍で考える 認知症とともにあるまち~