共生社会の反対語と聞かれたら何を思いつくだろう。あえて考えてみると、言葉としてこなれていないが排他社会だろうか。共生という言葉の対語としたらそうなる。排他社会。
昔々のそのまた昔のような話から始めるのだが、かつての、のほほんとした東京下町の高校生(僕のことだ)が大学に入って、さて、かと言って青雲の志に燃えるというタイプでもないし、女の子には見向きもされなかったし(その頃の政経学部には女子はほとんどいなかった)、講義に出ようにもキャンパスはバリケードに囲まれていて、つまりはアテドもないキャパスライフが始まったのだった。
この大型連休には、多くのボランティアが能登半島の被災地支援に入った。被災地の人々にとっては生活再建への大きな力になった。実際の瓦礫や家屋の片付けはもちろんのことだが、それ以上に、このように被災地に心寄せる人たちが続々と集まることに無形の支援を感じ取った人も多かっただろう。
この春からある機関誌に連載を始めることになった。なってしまったという感じがしないでもない。というのも、私は常々医療者や専門職でもなく、ましてや福祉の専門家でもありませんとお断りをしている。
春も桜の季節が過ぎると、何やら春も終わったような気分になる。そうは言っても夏に入れ替わるには、このモンスーンの風土ではこのあとに田畑の実りのためにも雨季を迎えるしかない。
認知症が治る時代が来る。といったことを話した。それも、よりによって認知症医療を担う医療者たちとの研究会でのことである。
今、二冊の本を手にしている。認知症の精神療法の本である。しかし、この手の医学本にしては、その不思議な本の雰囲気になんとも魅了される。
認知症を取り巻く時代状況が、潮が満ちてくるようにして変わりつつある。思えば、かつて痴呆と呼ばれ世間から隠されていた痴呆の人々がやがて認知症の人という呼称となり、家族の思いを寄せあうようにして家族の会が結成され、当事者の発信につながり、そして施策が追いつくようにして更新され、認知症基本法を生み出した。
ガンフォーラムを開くために大阪に行った。週末の大阪はインバウンドの客もあって大混雑。ホテルのチェックインに長蛇の列で30分ほどかかった。
小澤征爾さんが亡くなった。私にとっての小澤さんの音楽は、書斎に置かれたオーディオ再生を通して、コーヒーを飲みながらや読書をしながら、あるいは何かをパソコンに打ち込みながら聴いていただけで、私自身はなんの専門性も持たないしがない音楽ファンのひとりにすぎない。
1月28日、有楽町の壮大な会議施設、国際フォーラムで、NHKとNHK厚生文化事業団主催の「認知症とともに生きるまち大賞」の表彰式とフォーラムが開かれた。
年も押し詰まった大晦日の夜、石川県輪島市のあるクリニックで賑やかな年越しの宴が開かれていた。地域の新しい支援につながる医療を創ろう、そのスタッフ、仲間たちが集まった。とびきりのお酒と笑顔で溢れ、希望を語り合ったその時間は…
新しい年になったからといって我家の内を見渡しても、別段新しくなったものはこれと言ってない。この夫婦自体、年々古びていくだけだし、それにつきあうように家の建て付けも軋んだりしている。
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。新しい年が明けましたね。やはり新年というのはどこか改まった気分になるものです。
クリスマスシーズンである。街中がイルミネーションに輝き、クリスマスミュージックが鳴り響き、ビング・クロスビーと山下達郎が張り合っている。
2023年、「認知症とともに生きるまち大賞」の受賞団体が決まった。新型コロナウイルスの日々をくぐり抜けての各地域の取り組みはどこか晴々とした気分が漂う。それはコロナという試練を経て、これからの時代を開く方向性が見えてきたところにあるのかもしれない。
えーと、ではここからは話し合いにしましょう。あなたたちは大学生が多いのかな。おっ、高校生もいるんだ。何か羨ましい気がするなあ。
先日のEテレでクリスティーン・ブライデンの来日を追った「認知症診断後の「希望」とは 〜クリスティーンとの対話〜」を観た。
さて、ここからは、いよいよ「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」を読み解いていきます。ただその前にお断りしたいことがあります。
認知症基本法は6月14日に成立しました。だからもう5ヶ月が経ったことになります。この法律ができた意味合いが大きいとされるのは一つは基本法であること、そしてもう一つには、法律タイトルに「共生社会の実現を推進するための」と云う惹句が付されていることです。