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チャットGPTのあれこれを、素人の私があちこちに飛びながら考えてみた

コラム町永 俊雄

▲大型連休の後には、例年美しい白馬の村に行く。自然の只中で考え、渋谷の雑踏で考え、パソコンに向かって考え、そのどれもが違っていて、考えるということは、正解を求めるより振幅の大きな問いなのかもしれない。

このところ、騒然と言った感じで論じられているのが、チャットGPTである。
生成AIとも対話型GPTとかいろいろ言われていてよくわからない。そのわからなさがまた、どこか説明のつかない不安にからみとられる。

このチャットGPTやAI、人工知能をめぐっては随分以前から語られていたのだが、最近はそれが加熱して、議論には研究者、専門家、あるいは文化人がひしめき、どこか「素人は黙ってろ」的な雰囲気がないわけではない。やっかみかもしれない。
でも、素人こそが関わる課題なのだ。わからないから、ということで判断保留にはできない。それぞれが考えることでしか、この課題は解きほぐせない。
というわけで、私という立派な(!)素人が、パソコンという小さな人工知能端末をチビチビと打ちながら、考えた。

まず、チャットGPTである。このチャットGPTは人工知能との対話なのだ。
やってみた。
チャットGPTにかなりの長文で質問すると、返答欄のカーソルが点滅して若干の時間がかかる。人工知能が「えーと」と考えているような錯覚も覚える。
それから滑らかに文字がアウトプットされていき、まさに対話している感じなのだ。
質問によっては、ちゃんと箇条書きして整理してくれる。「くれる」、とつい記してしまったが、このようにネットの向こうにある種の人格を感じてしまうところもある。

で、ついでなので、こんな質問をした。
「このチャットGPTをめぐる議論には、いつか人類を支配してしまうのではないかと危惧されているが、どう思うか」
その答えがこうだ。

「私は人間の知性を超えることはできません。また、私は人間の知性を超えることを目的として設計されていないため、人間と比較することはできません。私はあなたとは異なる視点から情報を提供することができますが、あなたと同等の賢さを持っているとは言い難いです」

「まったあー、謙遜なんかしちゃってえ」と、人工知能相手にツッコミを入れてしまう私の知性などたかが知れている。ま、多分、あらかじめ用意された回答なのだろう。
しかし、私の体験は所詮「お遊び」のレベルで、どうということはない。

いまのチャットGPTをめぐる議論というのは、こうしたレベルを跳躍した次元での文明の危機か、あるいは、AIとの共生は果たして可能かと言った警告である。AIとの共生? すでにこのフェイズが目の前にある。

私のは無料版のチャットGPT-3なのだが、新しいもの好きな友人によれば、有料版のGPT-4は雲泥の差、一気に進化しているという。しかし、このレベル4を駆使しているであろう友人は残念ながら、それほどに賢くなったようには見えない。

そうなのだ。問題はそこにある。賢くなるのは、使いまくる人間の側ではなくて、利用する世界中の人間の脳のすべての思考や情報を吸い上げ蓄積し、ディープラーニングを倦むことなく続けるAI、人工知能の方なのだ。

だから、AIは一気に進化した。
AI研究の第一人者でグーグルの副社長も務めたジェフリー・ヒントン氏は、AIは想定よりはるかに早く人知を越えると警告し、この5月グーグルを退社した。いわば、AI開発の当事者と言っていいヒントン氏の警告は、新たな衝撃として世界に報じられた。
主(あるじ)はいつまで人間でいられるのか。AIはいつまで人間に従順な機械であり続けるのだろうか。

実はいまから55年も前にこの事態を予言したかのような映画がある。
1968年に公開されたスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」での、コンピュータHAL(ハル)の反乱だ。学生の時以来、くりかえし観た名作だ。

HAL9000というのは木星を目指す宇宙船に搭載されたコンピュータで、宇宙船のすべてを制御している。余談になるが、このHAL(ハル)というのは、当時のコンピュータ寡占企業のIBMのそれぞれの文字の一つ手前のアルファベットなので、IBMの先行、進化型の隠喩だとされたりした。

で、その超進化コンピュータ、HALが突然反乱する。宇宙船のすべてが支配され、のっとられる。
HALの反乱にただひとり生き残った乗組員は、最後の手段としてHALの記憶中枢ユニットを次々に解除していく。HALは徐々におぼろになる記憶の中で「怖いよ」と訴えながら、最後には、製造初期にインプットされた歌「デイジー」を乱れた音階で歌いながらシャットダウンされていく。
55年前のこの作品を今観ると、背筋が凍りつくような臨場感がある。

もはや私たちはこのネット社会そのものをシャットダウンするわけにはいかないし、そのすべも持たない。
テクノロジーもゆるやかな変化なら、それを進歩として私たちは受け入れられる。しかし、天地が逆転するような大変革というのは、怯えと恐怖でしかない。今、その大変革が目の前にある。

しかし、振り返れば私たちはすでにテクノロジーの進化体験をしてきている。
電話や手紙という伝達メディアは、すっかりネットやメールに取って代わり、いまや「電話で申し訳ありません」とか「メールで失礼ながら」と断りを入れる世代は消え去った。
かつての、対面でのコミュニケーションがデフォルトだった時代はすっかり過去である。そこにオンラインも定着したとなれば、私たちは、これからの人工知能の描く社会にも、案外すんなり対応できるのではないか、そんな声が、AI抑制への警告に対する反論に根強い。うまく利用することだ、と。

しかし、確認しなければならないこともある。メールなどSNSは何をもたらしたかということである。たしかにSNSは機能的で便利である。私もまた存分にその恩恵に浴している。誰もが発信者になれるという時代は、マスメディアをも揺り動かしている。

ただ、便利だからとすっかり馴染んでいるメールやチャットが、私たちの日常の風景に何をもたらしたのか。
SNSでの活発なやり取りの中に私たちの感覚や体質といった深層が変化させられている。この社会の誰もが、コミュニケーションしてはいるがつながっていないという状態に投げ込まれてはいないか。怖いのは、そのことに気づかないでなにかに支配されている感覚である。支配はあからさまな形では現れない。

誰かとつながっていないと不安になる。返事が来ないと怯えに変わる。つながっていながら孤立している。それは果たしてつながっていることなのか。それは、あなたのせいなのか。

今のチャットGPTなどのAIの進化は、日常のネット環境と地続きなのである。
にぎやかな情報の交換は、確かに便利で豊かな風景に映る。しかし、反転させればそれはまた、人間を押しつぶす荒涼の風景にも転じてしまうのだ。どこに立ち止まればいいのだろう。

私がささやかに関わっている福祉の世界というのは、人間の原理を基本として編み上げていく。人々の暮らしの中の喜びや哀しみや希望を基軸として、暮らしの日常とだれもの命をつなげていくのが、福祉なのである。
チャットGPTを創生したのは人間である以上、私たちは今一度人間の基本を確かめるしかない。

どうすればいいのだろう、と手に余る事態には、私たちはあまりに前のめりに「正解」を求めてしまう。この素朴な感覚こそが、一瞬にして最適解を弾き出すチャットGPTの思う壺、罠なのだ。
そうではなく、私たちの側がひたすらに「問いを立てる」ことだ。
私とは何か。人間とは何か。何を自らに問えるのか。

先日、藤井聡太新名人が誕生した。空前絶後の快挙、と修飾語のありったけで報じられた藤井新名人はまた、将棋のAI時代の申し子とも言われている。早くからAIの研究を重ね、最近ではAIを超えたとも言われる藤井聡太名人は、AIの進化の中での盤上の物語について、このように語っている。(6/2 時事刻々・朝日新聞)

「対局に現れるのは指した手だけですが、指されなかった手も存在します。それぞれに意図があり、重なり合って一局の将棋になる。意図を持って指し手を選ぶという人間ならではのことを大切にしたい」

私はこの談話に接した時、一挙に目の前がひらけた。もちろん、私は将棋の世界には全くうとい。しかし、鋭さよりも静かなほほ笑みが似合う天才青年棋士のこの言葉に、「人間ならでは」の奥深さ、思考の深淵を見た衝撃に見舞われた。
これこそがAIの大規模言語モデルが持たない「人間」の言葉だ。

指した手だけの選択ではなく、指されなかった手にもまた意図があり、その両者が局面を作る。「指した手」が成果であり勝利であり正解であるのは、そこに「指されなかった手」の意図が存在するからだと、名人は語る。

「指されなかった手」は「指した手」を支える。
ここから何を読み取り、どう「問いを立てる」のか。

|第248回 2023.6.7|

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