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「認知症をあきらめない」が合言葉

コラム町永 俊雄

メディアの仕事をしているものにとって最も手応えを覚えるのは、番組にまるで呼応するかのように世の中が大きく展開していく変化を目の当たりにするときだ。

「認知症」のテーマがまさにそうだった。当初は、痴呆症が認知症と言い換えられた頃。「どうもニンチショーってイメージがわかないなあ」とスタッフと言い交わしながら「認知症」と取り組んできた。そのころはまだまだ「認知症は治らない」「なってしまったら何もわからなくなる」 あまつさえ「絶望の病」とさえ言われていた頃だ。

まずは、介護する家族の悩み、不安を取り上げた。番組に寄せられた反応は圧倒的に家族からの声だった。「徘徊」「暴力」「妄想」そして「排泄」 それらを訴える声は悲鳴であり、あきらめでもあり、さらには親を恨み自分を責め、途方に暮れる家族の姿でもあった。スタッフは知恵を絞り、認知症の高齢者と暮らす一家のドラマを作ったり、寄せられた質問に時間の限り専門家が答えていく「Q&A」形式を工夫したりした。転機は認知症の本人が生放送に出演した事だった。スタジオの全員が息を飲む思いで、本人の発言に耳を傾けた。

家族の悩みや不安を根本的に解決して行くには、認知症の人本人の思いをくみ取り、寄り添うようにして医療や介護を組み立て直していくことだ。番組は急速に舵を切った。医療や介護の新たな取り組みを紹介し、生き生きとした認知症の人々の暮らしの可能性を示していく。医療の新たな手だては次々に報告され、適切な介護は本人の豊かな気持ちをくみあげ、「認知症をあきらめない」が合い言葉となった。

用語も変化した。すでに関係者の間では「徘徊」や「問題行動」という言葉は使われなくなっている。認知症の人が「問題」を起こすのではない。「徘徊」「問題」ととらえてしまう側の意識を変えていかなければならないと言う考え方だ。「認知症」を巡る介護や医療の大きな進歩であり成果であることは間違いない。

しかし、同時にわたしの頭の中で「待てよ」という思いも点滅する。用語を変えることで事態が解決するわけではないのだ。相変わらず、認知症の高齢者を抱え、「徘徊」という「問題行動」に疲れ果て崩れるような思いの多くの家族がいる。一方で、新たな取り組みを伝え、他方では「問題行動」の用語の世界の現実を具体的にどう解消していくのか。「徘徊」や「問題行動」の用語を使わないようにする、というのはとりもなおさずその用語の背景の現実に取り組んでいく、という責務の表明でなければならない。今度、私たちが大きな手応えを感じるのは、こうした用語が本当に必要でなくなったときにちがいない、わたしはそう思う。

| 第1回 2008.7.31 |

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