認知症EYES独自視点のニュース解説とコラム
  • くらし

本を読む少女は時代を超えて微笑む

コラム町永 俊雄

▲夏空を見るたび、高原の木陰にデッキチェアを出して、お気に入りの本を開く、そんな思いに誘われる。左は、15世紀ベネチアの出版人、アルダス・マニティウスの肖像。

絶海の孤島に一冊の本を持っていくとしたら、それは何か、と言う設問があって、それは歎異抄、と言う人もいれば聖書という人、ある詩集とする人などそれぞれだ。
なるほどね。でも絶海の孤島にひとりなのだから、そこは火のおこし方や食べられる野草の見分け方と言ったサバイバルの本がいいに決まっているじゃないか、とか言う私は相当のへそ曲がりなのである。本を読むということには、実の用を超えたもう少し違う何かがあるにちがいないと誰もが思っている。
かく言う私にも、遥かな記憶の向こうに本に関わる忘れられない光景がある。

いつのことだったか、それは青春と呼ばれるただただ思い惑うだけの時代に、追い立てられるようにして関東平野を突き抜ける郊外電車に乗っていた。
昼過ぎだったかあいまいな時間に走り続ける電車に乗客はまばらで、ふと気づくと向かいの座席に本を読む少女がいた。

一心に本を見つめている。窓の外には田植えの終わった緑が流れ、逆光にうつむいた少女の顔がページからの照り返しに映え、ひかる瞳が活字を静かになぞり、窓からの風が気まぐれに少女の髪を頬になぶる。

何の本を読んでいるのだろう。気づかれないように彼女を視野に収めながら、ずっとそのことを思っていた。何をあんなに一心に読んでいるのだろう。
やがてどこかの田園風景の広がる駅のホームに少女は降りていった。
少女がいなくなって一層ガランとした郊外電車に揺られながら、初めて気づく。彼女が読んでいた本を思うことで、私はあの少女をひたすら想っていたのである。

時過ぎて、あの時少女に声をかけていたら私の人生は今とは違っていただろうかと思うことがある。「何を読んでいるの」とひとこと声をかけたら、今の私の人生の風景は変わっていたのだろうか。振りむく少女、いぶかしげな表情、本のことだと知ると微笑みにほぐれ、電車に揺られながら最近読んだ本のことなどを語り合うふたりの郊外電車の時間。

変えようのない今の現実があるからこそ、そんな夢想が許されるのかもしれない。本を語ると言う主題なら、少女との世界の扉もかすかに開いたのかもしれない。
人生にはいくつもの分岐点が隠されていて、その無意識の選択が人生をかたちづくる。戻ることのできない人生の分岐点をかすかな悔いとともに思い返す時、そこに本を読む少女がいたことが、何か不思議に満たされる心象を生んでいる。本の世界はそのような力を秘めている。

しかし、コトが自分の読書体験となると、これはどこまでも個人的体験であるように思う。それは自分の本棚を他人に見られるというのが何となく恥ずかしい気分に反映している。
学生の時、友人の下宿などにいくとまずその本棚をじろじろと眺めまわした。そこに並ぶ書籍の質量で、友人を値踏みするのである。
だから、反対に友人が訪ねてくるとなると、その前に素早く本棚の蔵書位置を変えて、ヤスパースやマックス・ウエーバーや丸山真男をセンター位置に移動させ、「自信の持てる話し方8ヶ条」とか「百恵ちゃんのすべて」といった本はなかったことにする。

若い頃の読書体験とは、同世代間のミエや「脅かしっこ」で、個人体験でありながらそれぞれの個人体験を競い合わせるようにして育てていく。
「脅かしっこ」というのは、「あのさあ、丸山の「日本の思想」、読んだんだけど、結局彼の思想的伝統の論拠をどう見出していくかが現代政治学だと思ったな、オレは」とか、友人はいきなりぶちかますのである。となるとまだ読んでいないこちらとしては、内心かなりうろたえる。
「まだ読んでない」というのはマケであるから、「でもそれは、彼の「現代政治の思想と行動」と読み比べることで見えてくるんじゃないか」とかでその場をしのぎ、帰ってから大慌てで「日本の思想」を貪り読むことになる。

思えば、互いの言っていることはもっともらしいが、そのマウンティング的言動は幼さにあふれていた。しかしあの頃はそうやって脅かしっこしながら、結構それぞれの読書体験を膨らませていったのである。これを読んだら、あいつにこう吹っかけてやろう、とか、この本は、彼女はもう読んだろうか、とか同じ本を読む誰かがいることが、個人の読書体験を駆動していった。

これはまあ、メールもネットもなかった70年代での私個人の読書体験だから、今の時代環境とは大きく違う。
しかし、そうしたネットの目まぐるしいほどの情報交換がなかったからこそ、ある密度を持って個人の読書体験を共有できたのかもしれない。
今、メールで「読んだ?」と来ても、気軽に「読んでない」と返せるだろう。読書という体験とメールの瞬発とは、情報処理にかける時間単位が違う。

そういえば、あの頃は本を読んだことの思いの多くは手紙に託した。夜、電気スタンドの灯の下で、友人やガールフレンドの顔を思い浮かべながら、お気に入りのウォーターマンの万年筆で延々と本のことを記した。そうした時間を含めて読書体験だった。

どちらが良いのかはわからない。たぶん、今の世代の人々はネットやメールで、もっと違う形のゆたかな読書体験を育てているにちがいない。

今、読むという体験はデジタル媒体へ移行しつつあるとも言われている。確かにデジタルネットワークは情報の即時と拡張に飛躍的な革新をもたらした。ネット上には世界の全てがゆきかい、私もその恩恵は存分に受けている。ただ、ここから生起する情報社会の課題については、私には語るべき専門的知見はない。

15世紀のベネチアのひとりの出版人、アルダス・マニティウスが本の片隅に小さな数字を「ページ番号」として置いた。
印刷を発明したグーテンベルクには致命的な欠陥があった。それは印刷された本にはページ番号がなかったのである。それまでの写本を含め、そもそもページという概念がなく、書籍というのは最初から読み解くことで天からの叡智が舞い降り、神につながる選ばれた者の扉だったのだ。

本にページが記されていること。今、誰もがあたりまえに享受しているページの発明によって、現代の誰もが、知りたい内容にジャンプするようにアクセスが可能になった。すでにここにデジタルな世界の扉が刻印されたと言っていい。

実際、のちに「テクノロジーとリベラルアーツ(人文科学)の交差点に立つ」として世界の寵児となったアップル創始者のスティーブ・ジョブズは、パソコンで個人が出版できることこそが世界を変えるとし、アップル・マッキントッシュではDTP(デスクトップ・パブリッシング)ソフトが使えるようになっていた。

そのソフトのパッケージに、シリコンバレーの開発者たちはリスペクト込めて「アルダス・ページメーカー」の名前と彼の肖像を載せた。
ページを創った人、アルダス・ページメーカー・マニティウス。

アルダスはそれだけではなく、グーテンベルクの持ち運びすら難しい大型本を、馬の鞍カバンに収まるサイズに小型化した。まさに革命だった。ここに現在の私たちの読書体験の世界がつながった。通勤電車で鞄から本を取り出し、なにげなくページをめくる私たちの日常は、遠くイタリアの出版人の時空を超えた思いで可能になったのである。
それは本の世界の、情報と物語とをつなげた。
私にとっては本を読むことには、情報を得ることと、本の中の物語を生きる体験とのふたつの側面がある。

私たちはページをめくりながら、情報と物語を自分の中に編み上げていくとき、異国の人物と出会い、行ったことのない街角に佇み、過去のものごとを現在に蘇らせ、未来への扉のありかを現在に見出すこともできる。

一冊の本に秘められた物語は、ある時は歴史の回廊を遡行し、またある時にはまだ見ぬ未来を引き寄せることだってできるのだ。
はるかなどこかに、私と同じような「読む人」がきっといる。そのことを本の中に感じ取るとき、それは自分の、ひとりだけど誰かと共にいる世界をいつしか育てている。読書体験とは、時空を超えた共生の世界だ。

読みふける本からふと夏空に目を向けると、そこにあの本を読む少女がゆっくりと顔を上げ、花開くように微笑えむ。

|第253回 2023.7.20|

この記事の認知症キーワード