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誰が認知症であるかわからなくていい

コラム町永 俊雄

2017年に日本で「国際アルツハイマー病協会(ADI)国際会議」が開かれる。
この国際会議は、毎年世界各地で開催され、2004年には京都で開催された。
当時はまだ「痴呆」の時代だったが、ここから音立てるようにして日本の「認知症」状況は動いたのだ。
だからこのADI国際会議の動向はそのまま、今後の認知症を考える一番具体的な展望なのである。世界各地でのADI国際会議に注目し、取材してきた通訳・翻訳家の馬籠久美子さんは、最近の特徴は認知症の当事者運動が会議に反映されつつあることだと言う。

今年4月に、オーストラリアで開かれたADI国際会議でこんなことがあったと馬籠さんは報告している。
会議には認知症の本人が数多く参加する。それを受けて発表者のひとり、映画「アリスのままで」のプロデューサーが「会場の認知症の方、どうぞお立ちください」と呼びかけ、会場に拍手を求めたのだそうだ。
さて、これをどう受け止めるか。うーむ、正直「で、何か?」と言う気分にならないだろうか。たくさんの認知症の人が参加しての会議なのだ。その充実と達成。本人たちの貢献を賞賛しての拍手喝采。実際に当事者は起立して拍手を受けたという。しかし、そのうちの認知症当事者の一人は、その後の分科会でこう述べたという。
あの呼びかけは屈辱的です。起立させ、『認知症の人もそうでない人も見た目ではわからないでしょう』と言うことになんの意味があるのか。誰が認知症で、誰が認知症でないかは、わからなくてもいいのだと私は思う」と。
この報告を読んで私は唸った。「誰が認知症であるかわからなくていい」ということは、ラジカルであると同時に今の認知症当事者の声を聴く側の「覚悟」が問われている。

今、日本でも多くの認知症の人が発信している。
人前で話すことの負担や不安の中で認知症の本人が、自分を社会の只中に押し出すようにして体験を語り、想いと希望を語るとき、誰もが深い感銘を受ける。認知症の人が自ら発信することは、間違いなくこれまでこの社会が持たなかった大きな役割りだ。
ただ、その時私の中に聴く側へのかすかな思いも芽生える。言ってしまえば、感銘を受けて「いいお話」を聴いたというだけでいいのだろうか、ということだ。どこかで「認知症である人」に対して「認知症でない人」の立場で、調和的な感銘に身を委ねて話を聞いているにすぎないのではないか、と。

「誰が認知症であるかわからなくていい」というのは当事者からの鋭い問いかけだ。それは「認知症でない私」を深いところで揺さぶる。それが「誰もが認知症になる時代」の起点ではないのか。
いや私は、この「誰が認知症であるかわからなくていい」という言説が正しいと言いたいのではない。事の本質はこうした当事者の問いかけが絶えず発信され、それをしっかと受け止め、議論する空間があるということだ。 それが「認知症にやさしい社会」の本質だ。日本の当事者もよく「一緒にやりましょう」と語りかける。ヤワな思いでうなづいている訳にはいかない。それは「あなたの当事者性はどこにあるのか」という問いかけでもあるのだから。

馬籠さんの報告によれば、今年のADI国際会議には重要な変化があったという。それは「認知症の本人の声」とか「本人に学ぶ」というテーマ設定は姿を消し、各分科会の発表者に当然のこととして認知症の人が混じっていたというのだ。 「誰が認知症であるかわからなくていい」、当事者の問いかけが間違いなく世界を前に駆動している。

2017年、世界一の認知症社会の日本で、再び「ADI国際会議」が開催される。

| 第21回 2015.9.14 |